NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「平和」の中に滅びた日本人の徳

「【正論・戦後72年に思う】『平和』の中に滅びた日本人の徳 『戦争』と同様に『平和』も危険なのだ 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170815/clm1708150005-n1.html

 戦後72年、大東亜戦争戦没者に対する深い鎮魂を心に思う夏である。まさに深い鎮魂の心に沈潜しなければならないのであって、戦争の犠牲者を悼むというようなとらえ方をしてはならない。長い平和の中で、英霊に対して礼を失するような振り返り方が目につくように感じられる。戦没者は、世界史の必然の中で国家の運命に殉じたのであって、決して犠牲者などではない。


≪内部からいつもくさってくる≫

 茨木のり子の詩「内部からくさる桃」の中に「内部からいつもくさってくる桃、平和」という一行があるが、過去の歴史の悲劇に対する敬虔(けいけん)の情の喪失は、今日の日本の「内部からくさって」いる「平和」の腐臭の一例であろう。

 72年間の長きにわたり自立的でない「平和」が続いてきた日本に思いを致すとき、『イタリア・ルネサンスの文化』などの名著で知られる19世紀スイスの歴史家・文化史家ブルクハルトの『世界史的諸考察』(藤田健治訳)の一節が思い出される。およそ150年前に語られたことであるにも拘(かか)わらず、現代の日本の状況が言われているかのような錯覚さえ覚える。

 ブルクハルトは、歴史における危機について論じている章の中で「長期の平和は単に意気の沮喪(そそう)を生み出すだけではなく、苦悩と不安に満ちて、切羽つまった生存をつづける多数の人々の発生をも許すが、長期の平和なくしては生ずることのないこのような存在はやがてはまた大声で『権利』を求めて叫びつつどんな仕方ででも生存にしがみつき、真の力の占むべき場所を先取して、あたりの空気をムッとさせ全体として国民の血液さえ猥雑(わいざつ)なものとするのである」と書いている。

 今日の日本社会の「空気」は、確かに「ムッと」しているし、世間を騒がせているさまざまな事件は、「国民の血液」が「猥雑」になってきたことを痛感させる。


≪惰性で生き残った特殊な「考察」≫

 この哲人の言葉は、本来良きものである「平和」が孕(はら)む逆説的な危険について改めて考えさせる。特に、自立的でない「平和」の場合は、その弊害がさらに深刻なものとなるであろう。「戦争」と同様に「平和」も危険なのである。

 「戦争」だけが危険であると思い込み、「憲法」と同様に「配給」された「平和」という枕の上に眠りつづけた日本の戦後史というものも、「世界史的」「考察」を下してみるならば、ずいぶんと奇妙なものに違いない。戦後のいわゆる進歩的文化人による特殊な「日本史的な、余りに日本史的な」「考察」は、世界の現状からみれば、もう有効期限がとっくに切れているのであるが、日本では「意気の沮喪」による惰性で生き残っているのである。


≪西欧の成熟した思想に学べ≫

 「長期の平和」の中で「生存」してきた日本人にとって、このラスキンの言葉は「頗る奇異であり、かつ頗る怖ろしい」ものに違いないが、「まったく否定し難き事実」なのである。近代日本の歴史を振り返ってみても、人間の高貴な精神を発揮した数多の行為が日露戦争大東亜戦争という「戦争の中に生まれ」、日本人の伝統的な徳の多くが戦後の長き「平和の中に死んだのであること」を「見いだ」すからである。

 今や世界は深刻な危機の時代に入った。「平和」と「戦争」についての単純な思考を超えて、ブルクハルト、ラスキン、レッシングのような西欧の思想家たちの成熟した思想に改めて学ぶ必要があるのではないか。そのような精神の深みからの鎮魂こそ、先の戦争の英霊にはふさわしいからである。


賢人に曰く、

 平和とは何であるかと問はれれば、それは辞書にある通り“Freedom from, or cessation of, war or hostilities, that condition of a nation or community in which it is not at war with another.”意味し、また“A ratification or treaty of peace between two powers previously at war.”を差すといふのが、最も常識的な答えでありませう。それは戦争の事前と事後にある戦争の欠如状態、即ち、戦争してゐないといふだけの事です。要するに、単なる事実を示す消去的な意味に過ぎず、何等かの価値を示す積極的な意味として使用し得ぬものであります。少なくとも過去においては、特殊な平和主義者以外の大部分の人にとつてさういふものだつたのです。詰り戦争さへ無ければ好いのであります。が、戦争さへなければ好いといふ事は、或る価値を生むのに都合の好い状態であつても、その事自体を価値と見なす訳には行きません。のみならず、或る幾つかの価値を生むのに都合が好くても、それは必ずしも他の価値を生むのに都合が好い状態を意味しません。例えば勇気や自己犠牲の様に戦争状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふものも存在します。しかし、だからといつて戦争自体を価値と見なす訳には行きますまい。尤も日本の平和思想の弱点は、平和状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふ事についてすら、一顧の考慮をも払はなかつた事にあります。言ふまでもなく、平和は単なる事実や手段を示す消極的な意味ではなく、それ自信直ちに価値や目的と成り得る積極的な意味として通用してしまつたからです。

── 福田恆存(『平和の理念』)