平安の主義
教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり。そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり。その至大(しだい)の幸福とは何ぞや。ここに文字の義を細かに論ぜずして民間普通の語を用うれば、天下泰平・家内安全、すなわちこれなり。今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為(じんい)の習慣というも、そのへんはこれを人々(にんにん)の所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われて違(たが)うことなきを知るべきのみ。しからばすなわち教育の目的は平安にありというも、世界人類の社会に通用して妨(さまたげ)あることなかるべし。
そもそも今日の社会に、いわゆる宗旨なり、徳教なり、政治なり、経済なり、その所論おのおの趣(おもむき)を一にせずして、はなはだしきは相互(あいたがい)に背馳(はいち)するものもあるに似たれども、平安の一義にいたりては相違(あいたが)うなきを見るべし。宗旨・徳教、何のためにするや。善を勧めて精神の平安をいたすのみ。政治、何のためにするや。悪を懲(こ)らし害を防ぎて、もって心身の平安を助くるのみ。経済、何のためにするや。人工を便利にして形体の平安を増すのみ。されば平安の主義は人生の達するところ、教育のとどまるところというも、はたして真実無妄(むもう)なるを知るべし。
1901年(明治34年)2月3日 福澤諭吉 没
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