NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

いただきます。

「『いただきます』の日本語に隠された深い真意 悪には懺悔し、感謝の気持ちを持って生きる」(東洋経済オンライン)
 → http://toyokeizai.net/articles/-/149451

思い出のある「いただきます」

 日本人の習慣として口にする言葉のひとつに、「いただきます」があります。実は、この言葉は私の大好きな言葉のひとつです。実は、ちょっとしたエピソードがあります。

 私は小さな頃から、ごはんを食べるときは、テーブルに座り食卓に並んだ料理を目の前に、手を合わせ、大きな声で「いただきます」と叫び、母の「はい、どうぞ」という声を聞くまで決して食べませんでした。ときには、母が庭の掃除で外にいることもあり、その時は、外にいる母に聞こえるように張り裂けんばかりの声で「いただきまーす」と叫び、それに対して母も負けじと「はーい」という声を張り上げて返事してくれていました。そんな私と母の掛け合いの思い出ということもあり、この言葉を大事にしていました。

 その後も、小学校、中学校、高校、大学、そして留学のためアメリカへ行っても、食前の「いただきます」は、変わらない習慣として大切にしてきました。今でも、さすがに「いただきます」と叫ぶことはありませんが、外食の際のお店でも、移動中の飛行機の中でも、どこにいようとも食事をするときは、必ず手を合わせて、「いただきます」を口にします。

 そんな中、以前、こんなことがありました。ある時、仕事の出張でイギリスへ行くことがありました。長時間のフライトで唯一の楽しみは、食事です。その食事をいただこうと、いつも通りに手を合わせ「いただきます」と口にしました。すると横に座っていらしたイギリス人の方に、「素晴らしい」と日本語で褒められました。お話してみると、その方は日本にもう11年も住んでいらして、福岡の大学で英語を教えていらっしゃる方でした。私が機内であまりに堂々と手を合わせて「いただきます」と口にするものだから、驚いたそうです。

 これがきっかけで、私は自分が僧侶であることも明かし、「いただきます」の意味をはじめ、日本文化について考えることになりました。そして、「いただきます」を英語にするとどうのようになるのか尋ねると、イギリス人の先生は、僧侶の立場からどのように英語にするのか興味深いので聞かせて欲しいと、逆に尋ねられました。その時、初めて当たり前のように使っていた「いただきます」の意味を深く考えました。


「いただきます」の意味

 食前に口にする「いただきます」の意味を尋ねられると、一般的には食事を作って下さった方々への感謝だと答える方が多いと思います。もちろん、この感謝の気持ちも含まれていますが、実は真意はもっと深いものです。

 本来「いただきます」の前には「いのちを」という言葉が隠されているのです。これを英語にすると「I take your life.」(私は「いのち」を奪う)となり、ストレートでわかりやすくなります。つまり、私たち人間は、動物、野菜、空気の細菌やウイルスを含め、他のいのちの犠牲なくしては生きていけないのです。言い換えれば、私たちはさまざまな「いのち」に支えられて「生かされている」のです。

 この意味を踏まえると、まず「いただきます」と口にして思うべきことは、「申しわけない」という他のいのちへの懺悔(ざんげ)なのです。すると自ずと頭が下がります。そして、そこから感謝が生まれてくるのです。ですから、一案として英訳は「I am so sorry for taking your life and am greatly appreciate to be able to have your life.」(あなたのいのちを奪ってしまい、申し訳ありません。有難くいのちを頂戴いたします。)と表現できると思います。

 また、「いただきます」に漢字をあてるならば「頂きます」になります。「頂き」とは頂上を意味します。本来ならば、大切な他の「いのち」は尊敬の念を持って高いとこから授かるものです。しかし、実際に私たちが食事をしようとするとき、料理となって目の前に並ぶさまざまな「いのち」は、私たちの頭の位置より低い場所にあります。だから「いただきます」と言うときには、合掌しながら頭を下げて、他の「いのち」に対して尊敬の念を伝えるのです。実は、動作の中にも「いただきます」の真意が込められているのです。


「いただきます」を支える精神

 しかし、ふと思うことは、「いただきます」という深い懺悔と感謝の気持ちが込められた言葉が作り出された背景には一体何があるのかということです。私はここに、日本人の「凡夫」(ぼんぶ/ぼんぷ)としての自覚があるのだと思います。

 「凡夫」とは、仏教用語の一つで、「煩悩を断じていない愚かな私たち」のことをいいます。私たちというのは、煩悩(貪ること・怒ること・無知であること)を持つが故に自他共に傷つけながら生活しています。他を傷つけたくないと思っていても、結局は傷つけてしまうことや、結果的には傷つけてしまっていたということがあります。言い換えれば、私たちは巡り遇わせ(これを縁とも呼びますが)次第では、何をしでかすか分からないとても不安定な存在です。ここに人間の罪悪性があります。これが「凡夫」の姿です。

 しかし、大切なことは、「凡夫」の自覚で終わらないことです。せめて意識できる目の前の悪に対しては懺悔し、感謝の気持ちを持って生活しようというのが、日本の素晴らしい精神なのだと思います。その精神の現れとして、「いただきます」という言葉と頭を下げる動作を生み出したのだと考えられます。

 しかし、昔と比べると、今日の日本では「せめて意識できる悪」の認識の具合が低下しているように思えます。これは、「いただきます」という言葉の意味が表面的な内容でしか語られなくなっていることにも表れているのではないでしょうか。また、テレビ、インターネットなどのメディアを通して、信じられないような悲しい事件が目や耳に飛び込んできてしまう現実にも関係しているように思えます。

 言葉だけではなく、その言葉の真意や精神をも引きついでいかなければならないと、「いただきます」という言葉の意味を考える中で学ばせて頂きました。