読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

若い世代に求めたい新しい知性

「【正論】年頭にあたり 若い世代に求めたい新しい知性 お茶の水女子大学名誉教授・外山滋比古」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170103/clm1701030007-n1.html

 長い日本の歴史を振り返ってみても、ここ30年、戦後70年ほどいい時代はなかったのではないかと思われる。おかげでいくら平和ボケをして、危ういことが近づいていても、“津波ノ心配ハアリマセン”というのに慣れて、緊張を欠いているのである。

 しかし、実際には、大変化が押し寄せている。それを無視するのは知的怠慢である。

 中高年の人に頼るわけにはいかない。ご苦労だが若い世代に出動していただくほかはない。


 ≪考えるとはどういうことか≫

 まず、知識中心主義から脱却してもらいたい。模倣主義を捨ててほしい。知識のみでは新しい文化を創ることはできない。模倣ではお手本の先へ出ることは不可能だからである。

 明治以降の学校教育は“学ぶ”、つまり、まねることを主眼としてきたから、知識人を育てることはできても、新しいことを創り出したり、生み出すことのできる人材を育てることはできなかった。みんなですることだから、それが危険である、という人はなかった。努力家の秀才は、ナンデモ知ッテイルバカ(内田百●=もんがまえに月)になることができた。

 ものまねに没頭していれば“考える”ことを忘れるのは自然であろう。二口目には“自ら考える”と言うくせに、考えるとはどういうことか、一度も考えたことのない人間があふれるほど増えるのは是非もない。

 大きなことをするには、そして新しいことをするにも教育が邪魔になるということが、よく分かっていないのが学歴社会であるといって差し支えない。


 ≪大きな仕事には生活力が重要だ≫

 知識万能の社会に、予想もしなかった巨人(?)が現れた。人工知能(AI)である。

 コンピューターが現れてから、70年しかたっていないのに、急速に“進化”して、いまや人間の知能を脅かすまでになった。知識信仰にとりつかれた人たちは、ノンキに構えているが、AIは人間の変革を迫っているのである。それに対する心構えがなければ、人間は存在を問われかねない。それに気づかないのは愚鈍である、と言われても仕方があるまい。

 とりあえず、AIと渡り合うには、機械が不得手なところで勝負するほかはない。

 データや数字の処理について人間がAIに遠く及ばないことは、すでに一般の知るところとなっている。

 もっとも複雑なのは、生活、生きることである。これまでなおざりにされてきた生活から、学ぶというようなことは考えたこともない。学校は生活を停止して知識を教えることを使命としてきた。教育を長く受ければ受けるほど、生活力を失ったのは当然だが、新しく大きな仕事をするとき、生活力がものをいう。高学歴者の創造力が思ったほど高くないのは、むしろ当然であろう。

 生活は混(こんとん)、雑然としているが、成功より失敗の方が多い。その失敗経験が、成功沌の道を教えてくれる。失敗を知らずに成功することはまず不可能である、と考えるのが現実的である。試行錯誤というが、失敗の価値はきわめて大きい。

 泥沼は汚い、といって蒸留水で蓮の花を咲かせようという人はいない。汚れた泥の中から蓮は美しい花を咲かせるのである。人間の生活も、蓮の泥沼のようなものである。


 ≪知的個人主義は不毛である≫

 失敗の経験は最高の教師である、ということを近代は忘れたのか、知っていても知らぬ顔をしてきたのか。現代文化がどこか、非人間的であるのは、生活欠如の帰結であるかもしれない。

 “ワレニ七難八苦ヲ与エ給ヘ”と言った戦国の武将は、ネガティブなものからポジティブなものが生まれるという洞察をもっている。

 何かと言うと専門を持ち出す。しかしそれはひとりだけの知識である。知的個人主義が不毛でありやすいことを、現代はまだよく理解していないらしい。

 本を読むより、違ったことをしている仲間と語らい合う方がどれくらいためになるか、今の個人主義者、孤立派には分かっていないようだが、ひとりで考えることには限界がある。ほかの人と雑談をすると、ひとりでは思いつかないようなことが飛び出してくる。

 昔のヨーロッパの大学がカレッジ(学寮)で学生に生活と学問を一体化させた意義は大きい。独学、ひとりだけの修行の好きな日本人はついに、おしゃべり、雑談の面白さを知らずにきたが、いまからでも遅くない。知的会話のクラブをつくって、新しい文化を開発させることが望ましい。

 近づく大変動にしてやられるのではなく、それをきっかけに新しい人間になる、いまはチャンスである。若い人たちが新しいホモ・サピエンスになることができるのは、すばらしいことである。


賢人に曰く、

 「教育がある」ということは、かならずしも「教養がある」ことを意味しません。それどころか、今日では、残念なことに、この両者は往々にして一致しないのであります。高い学校教育を受けた人ほど教養がなく、現代文明の先端をいく都会人ほど教養がない。そういいきってさしつかえないものがあります。
 では、教育と教養とはどうちがうのか。一口にいえば、教育によって私たちは知識を得、文化によって私たちは教養を身につける。もちろん、元来は、教育は私たちに知識とともに教養を授けてくれるものだったのです。それがそうではなくなってしまった。教育は文化と直接かかわりなく、教育が与える知識は文化から遊離してしまったのです。

── 福田恆存(『私の幸福論』)

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)