本はあんなにあふれているが、本当はあふれてはいない。
「【産経抄】『売れ筋でなくとも良書を売る』書店…吉凶どう出るか」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/161127/clm1611270003-n1.html
太閤秀吉がお伽衆(とぎしゅう)にたずねた。「世の中に一番たくさんあるものは何か」と。「人でございます」と答えたのは、知恵者の曽呂利(そろり)新左衛門である。秀吉はさらに問うた。「一番少ないものは」「人でございます」。
評論家の谷沢永一さんが昔日のエッセーでこの頓知話に触れていた。筆はこの後、明治期の人物評へと向かい、数人の名を挙げては谷沢流の一刀両断で斬り伏せている。新左衛門の言う「人」とは才知豊かな「人物」のことだろう。ペロリと出した舌が目に浮かぶ。
「本好き」を表題にした自著もある谷沢さんなら問答にある「人」を「本」に置き換えて、毒を吐くかもしれない。「一番少ないものは何か」「本でございます」。毎年、万単位の新刊が世に出る出版事情を重ね合わせると、良書と出会うにも幸運の手助けが要る。
知られた警句に「悪書にまさる泥棒はなし」がある。選書の目利き、つまり売る側のセンスも大事になる。「売れ筋でなくとも良書を売る」を掲げたこの書店の吉凶は、どう出るだろう。青森県八戸市が、公営の「八戸ブックセンター」を来月4日にオープンする。
「本のまち」を掲げる市の看板施策で、海外文学や芸術などの選書を手厚くするという。売れ筋を追えばコミックや流行作家の作品に偏り、売れなければ足が出る。推計年約4千万円の赤字を「読者」たる市民が「文化への投資」と、大目に見てくれる保証もない。
当座は世に埋もれているであろう「本」を掘り出しながら、読者の顔色をうかがう日々が続くだろう。谷沢さんが書いている。「雀躍(こおどり)する書物を探しだすまでの、僅かな忍耐が実は非常に重要」(『人間通』)だと。人と本との相性は男女の機微に似て実に難しい。良縁を祈ろう。
翁に曰く
本はあんなにあふれているが、本当はあふれてはいない。ただ棚をふさいで、見るべき本の邪魔をしているのである。
- 作者: 山本夏彦
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