NAKAMOTO PERSONAL

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坂口安吾の心に刺さる「恋愛論」

「恋とは? 愛とは? 文豪・坂口安吾の心に刺さる『恋愛論』」(@niftyニュース)
 → https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12199-NBj3XO0cH5/

「女心と秋の空」……と申しますが、もともとは「男心と秋の空」「女心と春の空」という言葉が始まりです。まあ、どちらにしても人の心は移ろいやすく、男女の感情は本当に難しいですよね。今回は、そんな恋に悩んだひとりの文豪の本を紹介します。


恋とは? 愛とは? 文豪・坂口安吾の心に刺さる「恋愛論」

人間の悩み事の大きな要素である「恋愛」。
恋に悩み、恋に生き……そしてその解決法は、昔も今も確立していません。
今回は恋愛について書かれた、あるひとつの文学から言葉を拾い出してみましょう。

その文学とは坂口安吾の「恋愛論」。
「白痴」や「堕落論」で有名な坂口安吾は明治生まれ。
人間の本質をえぐり出すような文章は、多くの人の人生に影響を与えてきました。
そんな彼の書いた「恋愛論」にはどんな言葉が詰め込まれているのでしょうか。

「恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。」
若いうちは永遠の愛を信じていても、大人になればそんなものはないと知ってしまう。
安吾はそれを「不幸」と言っています。
また、「ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。」とも。
恋に恋している間が一番幸せなのかもしれません。

そしてこんな言葉も。
「プラトニック・ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互(たがい)に他を裏切ることが宿命で、(中略)どちらも、いい加減なものである。」
安吾はどうやら「浮気肯定派」。
ほかの作品で「誰しも夢の中で呼びたいような名前の六ツや七ツは持ち合せているだろう。一ツしか持ち合せませんと云って威張る人がいたら、私はそんな人とつきあうことを御免蒙るだけである。」と言っているので、少数派なのかもしれません。

自己流の恋愛論を語ったあと、彼は文章をこう結んでいます。
「孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない」
まっすぐと言い切るこの姿勢、まさに彼らしい一節です。

実は恋愛論はこんな言葉ではじまります。
「恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。」

安吾もわからない、恋の謎。
きっとこれからも、解き明かされることはないのでしょうね。

文/岡本清香


TOKYO FM「シンクロのシティ」にて毎日お送りしているコーナー「トウキョウハナコマチ」。江戸から現代まで、東京の土地の歴史にまつわる数々のエピソードをご紹介しています。今回の読み物は「坂口安吾の心に刺さる『恋愛論』」として、9月27日に放送しました。


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<番組概要>
番組名:「シンクロのシティ」
放送日時 :毎週月~木曜15:00~16:50
パーソナリティ:堀内貴之、MIO
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/city/

「新潟で来月8日に『坂口安吾生誕祭』」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/region/news/160918/rgn1609180005-n1.html


『恋愛論』

 恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
 若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。
 年齢には年齢の花や果実があるのだから、恋は幻にすぎないという事実については、若い人々は、ただ、承った、ききおく、という程度でよろしいのだと私は思う。

 教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。
 恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。

 人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題がはじまるのである。

 私はいったいに同情はすきではない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。
 私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。

 恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。
 ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。

 人の魂は、何物によっても満たし得ないものである。特に知識は人を悪魔につなぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ない。限られた一生に、永遠などとはもとより嘘にきまっていて、永遠の恋などと詩人めかしていうのも、単にある主観的イメージュを弄ぶ言葉の綾だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。

 人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。

 人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。

 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

── 坂口安吾『恋愛論』

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)