『桜の森の満開の下』
「偏愛読書館 人前で本を読むこと 『桜の森の満開の下』(坂口安吾 著)ほか」(本の話題WEB)
→ http://hon.bunshun.jp/articles/-/4977
朗読は第一声が肝心。せっかちな性分の私はいつもそう心がける。題名と作者の後はたっぷり溜めて、これから送り出す物語へ魂を込めなくては。
初めて人前で読んだ本は坂口安吾の『桜の森の満開の下』である。その頃フジテレビのアナウンサー自ら立ち上げた朗読舞台「ラヴシーン」がやっと軌道に乗り始め、年に一度の公演が開かれるようになっていた。参加は自由。それぞれが読みたい本を持ち寄って舞台を構成していく。当時の私は二年在籍したスポーツ局から古巣のアナウンス室に出戻ったばかりで所在ない毎日を過ごしていた。溶け込む機会だと手を挙げてみたものの読みたい本なんて浮かんでこなかった。
「声の感じといい大坪さんに合うと思うよ」とプロデューサーのいとうせいこうさんから手渡されたのがその本だった。
「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。」物語はこの一節から始まる。大昔は桜の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりとされていた。
朗読劇の台本は物語のかなり後半部分からである。鈴鹿峠の山賊は妻にしようと連れ帰った美しい女のわがままに翻弄され居心地の悪い都会暮らしを強いられる。女の欲を満してやる事にも疲れ、田舎の山に帰ろうと思い立つが途中には怖しい“桜の森”が花盛りを迎えていた。
言葉の強弱や行間、視線や体の向きなど細かな稽古をつけられ、なんとか形にはなっていった。迎えた本番、上手く読みたいとか観客に伝わるかなんてことはすっかり飛んで、山賊や女は私の中をあっという間に通り過ぎ、桜の下にただ無心で立っていた。
終演後、先輩が興奮気味に私を呼ぶ。楽屋口で安吾のご子息坂口綱男さんを紹介された。無頼派と称された父上と面立ちは似ていらしたが、穏やかでユーモアあふれるお話しぶりに心が解れた。演出上短く抜粋した作品にがっかりなさっているのではと恐縮していると、「いやいや『桜の森の満開の下』が“ラヴシーン”であったとは大きな発見でしたよ」と何度もうなずきながら喜んで下さった。
後日、安吾が眠る新潟県の新津市(現・新潟市)でまた読まないかと誘いを受けた。綱男さんの演出だという。喜んでお引き受けしたものの、日がせまると不安が募った。安吾の街でこの私が読んでいいものか。
会場の美術館に入ると、怪しく美しいピンクに染め上げられた舞台が出来上がっていた。百四十の客席は安吾を愛する人たちで埋まっていく。その熱にあてられて逃げ帰りたくなった。「読むことは歌うことと同じアートの一分野です。朗読は原作に最も近い表現方法。イマジネーションの桜の森に連れて行きましょう」。笑顔の綱男さんにそう救われ、ゆっくりと読み始めた。桜の下の怖さに包まれながら物語が私の中を巡る感触があった。2005年、結婚を決めた相手が海外暮らしだったのでやむなく会社を去ることになった。心細い異国暮らしの中で拠り所となったのはチューリッヒの小さな図書館。宇野千代の『それは木枯しか』をコントラバスの調べにのせてフランス人と読み合ったりもした。仏語で語られるその本は妙に気取って歌のように聴こえてくる。「この作品は東郷青児との話がモチーフだよね」と宇野千代の半生をスイス人に熱く語られるなんて、国を出ないとわからないものだ。
昨年久しぶりに日本でプロも集まる朗読会に顔を出した。そこでまた角田光代の『旅する本』に出会う。
学生街の古本屋に売りに出した翻訳小説を主人公は何年も経って旅先のネパールで見つけ、また数年後アイルランドでも手に取ることになる。読み返す度に小説の中身が変わっていると感じていたのだが、変わっているのは本ではなくて自分自身だと二度目でやっと気がつく。
「君が読むとこの本はしっくりくる」。そう先輩に言われた通り、私はテレビ局を退社してこの十年、スイス、ブラジル、イギリスと渡り歩き、今はマレーシアに居を構えている。
「家を離れ恋や愛を知り、その後の顛末も知り、友達を得たり失ったり、上手くいかないものごとと折り合う術も身に付け、私の中身が増えたり減ったり、少しずつ形を変えるたびに、向き合うこの本は、がらりと、意味を変えるのである。」
助けられたり裏切られたり、嬉しかったり情けなかったり、色んな思いをしながら土地土地で少しずつ変わってきた自分を読み終わって噛み締める。
朗読の魅力は私から物語が伝わるだけでなく、私にも置き土産をもらえることだ。私の内側が前より少し柔らかくなりしばらくたって救われていたと気づく。そしてまた次に読む本との出会いにわくわくしてしまうのだ。
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そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
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