NAKAMOTO PERSONAL

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桜桃忌

太宰治の忌日にあたる『桜桃忌』  ゆかりの地で、その生涯をたどる」(tenki.jp)
 → http://www.tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2016/06/19/13331-summary.html

6月19日は桜桃忌(おうとうき)。小説家太宰治の誕生日であり、玉川上水に入水自殺をはかりその亡骸が発見された忌日でもあります。38年の生涯に4度の自殺未遂、2度の結婚(正式には1度)に複数の愛人の存在。一方で子煩悩な父親であり愛妻家でもあったという太宰は、『走れメロス』『津軽』『斜陽』『桜桃』『人間失格』など、今なお愛され読みつがれる名作の数々を残し、後世の作家や若者たちに絶大な影響を与え続けています。太宰の足跡が色濃く残る、生誕の地である青森と晩年を過ごした東京三鷹。今回は、その波瀾に満ちた生涯をたどって、両地をめぐる旅に出てみましょう。


桜桃忌の歴史と現在

太宰治(本名、津島修治 1909年6月19日 〜1948年6月13日)の亡骸が発見された6月19日、この日は彼が書いた短編『桜桃』にちなみ、太宰と同郷の津軽出身の作家今官一により「桜桃忌」と名付けられました。当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、桜桃(さくらんぼ)をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会でした。常連の参会者には、亀井勝一郎佐藤春夫井伏鱒二檀一雄などが名を連ねています。その死から70年を経ようとする現在も、毎年多くの太宰ファンが墓所のある禅林寺(東京都三鷹市)に太宰との心の交流を求め参拝に訪れています。


幼少期の太宰に出逢える場所、青森県五所川原

青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に、県下有数の大地主の6男として生まれた太宰。津島家は「金木の殿様」と呼ばれていたほどで、父は県会議員、衆議院議員等をつとめた地元の名士でした。太宰は、家の商売を通じて貧富の差や兄弟の間にも存在する身分の格差を実感し、裕福な自己の境遇を忌み嫌うようになります。病弱な母に変わり主に乳母タケによって育てられますが、タケが小説家太宰治誕生のきっかけをつくったといわれています。やがて時間を忘れるほど読書に熱中した太宰は、作家を志すようになり泉鏡花芥川龍之介の作品に傾倒していくのです。

太宰治記念館「斜陽館」は太宰の生家であり、多感な幼少期を過ごした場所。和洋折衷・入母屋造りの豪奢な建物は、国の重要文化財建造物に指定されています。総工費は当時の金額で約4万円、現在価格はなんと7~8億円! 館内には太宰が産声をあげた部屋があり、蔵を利用した資料展示室には、生前着用していたマントや執筆用具、直筆原稿、書簡などのほか、初版本や外国語の翻訳本の展示も。太宰ファンの聖地ともいえる斜陽館は、作品のさまざまな場面に思いを馳せながらじっくり過ごしたい場所です。

斜陽館の近くにある太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)は、兄夫婦の新居として建てられた津島家の離れで、太宰が執筆を行った家として唯一現存している貴重な建物です。1945年7月より1年4カ月間をこの家で過ごし、『パンドラの匣』『苦悩の年鑑』『親友交歡』『冬の花火』『トカトントン』など、多くの作品を書きあげました。また、少年時代を描いた『思ひ出』に登場する金木山雲祥寺もぜひ訪れたい場所。乳母のタケと共にやってきた幼い太宰が恐れおののいたという地獄絵(十王曼陀羅)は必見。境内には太宰治記念碑もあり、太宰ファンゆかりの地となっています。


晩年を過ごし、数々の名作を残した三鷹

一方、三鷹は太宰が1939年から没するまでの晩年を過ごした地です。この年、敬愛する作家の井伏鱒二の紹介で、最後まで連れ添うこととなる石原美知子と結婚式を挙げ、三鷹に転居しました。この時、太宰は井伏に提出した「結婚誓約書」のなかで、「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書き、過去の複数に渡る自殺未遂から立ち直り、美知子を一生かけて守っていくとする決意を語っています。精神的にも安定し3人の子どもにも恵まれ、『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』などの優れた短編を発表。死の前年には、没落華族を描いた『斜陽』が評判を呼び、ついに流行作家の地位を手に入れます。しかしその翌年、『桜桃』『人間失格』などを書きあげたのち、1948年6月13日に玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見されることになるのです。

三鷹の街中には、太宰ゆかりの場所が数多く残されています。 まずは、太宰治文学サロンへ。三鷹下連雀に住んだ太宰の足跡を、写真や地図などを使ってわかりやすく展示しています。数少ない太宰が生きた当時のままの姿で残されている場所が、駅から程近い陸橋と呼ばれる三鷹電車庫の跨線橋です。太宰はこの陸橋を好み、ここで撮られたマント姿の写真が有名。また、太宰が住んだ家から移植された百日紅さるすべり)の木がある井心亭(せいしんてい)も訪れたいスポット。建物は木造数奇屋造りの純和風建築で、庭の百日紅は8月頃にピンク色の美しい花を咲かせます。墓がある禅林寺、『日の出前』『黄村先生言行録』『ヴィヨンの妻』など多くの作品の舞台となった井の頭公園もぜひ足を運びたい場所です。太宰横丁と呼ばれる行きつけだった飲食街、原稿料を受け取った郵便局などは、今も当時と同じところにあります。これらは、三鷹駅を中心に徒歩で2時間程度。時季は梅雨ですが、ゆかりの場所を巡りながら、太宰の生きた当時の雰囲気に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

黒々とひとは雨具を桜桃忌 石川桂郎

 太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をなさゞるアガキであったと思えばマチガイなかろう。こういう悪アガキはそッとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいゝ。
 芸道は常時に於て戦争だから、平チャラな顔をしていても、ヘソの奥では常にキャッと悲鳴をあげ、穴ボコへにげこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、世の終りに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてゞある。

── 坂口安吾(『太宰治情死考』)

今日は桜桃忌。