NAKAMOTO PERSONAL

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日本人が知らない多神教の原点

「ゼロからわかる『宗教』の謎~時代によって『神』も変わる?日本人が知らない多神教の原点」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48774

日本の神様はあいまいな存在

日本は多神教の国であると言われる。

これは、西欧やイスラム圏と対比して言われることで、キリスト教イスラム教が一神教であるのに対して、日本は八百万の神々が信仰される多神教の国だというわけである。

一神教については、それが日本とは異質な信仰のあり方であるということで論じられることが少なくない。一神教の伝統は、基本的にユダヤ教からはじまり、キリスト教、そしてイスラム教へと受け継がれていった。唯一絶対の創造神に対する信仰がそうした宗教の根幹にあることは広く認識されている。

ところが、多神教については議論の対象になることはほとんどない。一神教の世界でも、それ以前は多神教であったはずだし、インドのように今でも多くの神々が信仰の対象になっている国や地域はいくらでもある。中国も、最近ではキリスト教が台頭しているとはいえ、基本は多神教である。

私たちは一神教の特徴についてはそれを列挙することができるが、多神教ということになると、多くの神々が信仰の対象になっていて、そこでは唯一絶対の神は存在しないといったことしか、その特徴をあげることができない。

せいぜい、テロや宗教対立が起こったときに、一神教が寛容ではないのに対して、信仰対象が一つに限定されない多神教は寛容を特徴としていると指摘される程度である。

つまり、私たちは、自分たちがその世界に生きてきたにもかかわらず、多神教というあり方について十分に考えをめぐらせてはこなかったのだ。

あるいはそこには、日本人が幕末維新期から西欧文明にふれ、一神教というあり方に対してコンプレックスを感じてきたことが関係するのかもしれない。

しかし、それ以上に、「神道は言挙げせず」ということばがあるように、神道の伝統においては、その信仰を言語化することが少ないという点が重要である。神道はあくまで祭祀が中心であり、神学は発展を見せていない。


仏教ありきの神道

私は、そうした神道の特徴を「ない宗教」というところに見出してきた。神道においては、世界の創造神が存在しないだけではなく、開祖もいなければ、その教えもなく、したがって教典も存在しない。これは、今回刊行した『「日本人の神」入門』(講談社現代新書)でも詳しくふれているところだが、神社の社殿さえ存在しない時代が長く続いたのだ。

これは、日本人にとって神道と同様になじみの深い仏教と比較してみればいい。仏教は「ある宗教」で、創造神こそ存在しないものの、開祖、教え、教典がすべて揃っており、その施設である寺院も長い伝統をもつ。法隆寺は世界最古の木造建築にほかならない。

日本では、「ない宗教」としての神道と「ある宗教」としての仏教が融合し、中世から近世にかけては「神仏習合」という事態が生み出された。この神仏習合を象徴するのが「本地垂迹説」で、これは、日本の神は仏教の仏が仮に姿を現したものだという説である。その説の内容から考えて、仏教優位の考え方であり、それは、神道の世界ではなく、仏教の世界から生み出されてきた。

そこに示されているように、神道の世界、日本の神々の世界において神学を打ち立ててきたのは、神道内部においてではなく、仏教の僧侶たちであった。有力な神社には必ず神宮寺と呼ばれる寺院があり、そこに住まう僧侶たちが社前で読経するなど、神社を守ってきた。

そして、仏教の思想をもとにしながら、神道についての理論を築き上げてきた。神道の世界で、独自の神学が生まれるのは、江戸時代になって「復古神道」、「国学」の試みがはじまってからのことである。

復古神道を信奉する神道家や国学者は、仏教の影響を排除した純粋な神道仏教伝来以前の古代の神道のあり方を取り戻そうと試み、それが、明治維新に際しての「神仏分離」に発展する。これは、仏教を排斥する「廃仏毀釈」をも伴い、それ以降、神道の世界と仏教の世界は截然と区別されるようになる。

それは、日本人の宗教のあり方に根本的な変化をもたらすことになるが、同時に、神社から「社僧」と呼ばれた僧侶たちが一掃されることによって、神道の信仰世界を言語化する試みが著しく衰退したことを意味する。

その後、天皇とその祖神である天照大神を中心とした「皇国史観」が確立され、それにもとづいて神道の体系化ということが推し進められるが、それは決して伝統に則ったものではなかった。


無知のまま神を信じる日本人

具体的には、祭神が変更されるような神社も出てきた。京都の八坂神社は、現在では素戔嗚尊を主たる祭神としているが、明治に入るまで、そこで祀られていたのは、その正体を明らかにすることが難しい牛頭天王であった。

出雲大社においてさえ、最初大国主命が祀られていたものの、神仏習合の時代には素戔嗚尊に祭神は変わり、大国主命に戻ったのは、神仏分離以降のことである。

このように、日本における神の祀り方には変化があり、つまりは歴史がある。私たちはそのことについて、あまりに無知であり、神道のことについても、神々のことについても深くそれを考えてみようとはしてこなかったのだ。

そこに大きな、また根本的な問題がある。私が、『「日本人の神」入門』を書こうと考えたのも、そうしたことが関係する。一度、日本人が信仰してきた神々がどのような存在であり、その祀り方にどういった歴史があるのかを明らかにする必要があると感じたのである。

たとえば、皇祖神である天照大神について、私たちはそれが伊勢神宮に祀られていることは知っている。あるいは、全国各地にある神明社などと呼ばれる神社に祀られ、さらには皇居にある宮中三殿の一つ、賢所で祀られていることは認識しているだろう。

しかし、代々の天皇伊勢神宮にほとんど参拝してこなかったことについては、その事実を知る人も少ない。まして、その意味を考えようとしてきた人はほとんどいないのではないだろうか。

伊勢神宮では古代から中世にかけて「斎宮」の制度がとられ、天皇に代わって皇室の女性が祭祀の役割を担ってきた。それだから天皇は参拝しなかったのだという説を唱える人もいるが、果たしてそれだけが天皇が参拝しなかった理由なのだろうか。

持統天皇は参拝した可能性があるが、それ以降、代々の天皇は伊勢に行幸することはなく、はじめて伊勢神宮に参拝したことが明らかになっているのは明治天皇なのである。

実は、鎌倉時代日蓮は、伊勢神宮に祀られた神が蔑ろにされていたことを証言している。むしろ、応神天皇と習合することによって第二の皇祖神の地位を獲得した八幡神の方に、皇室の信仰は傾いていたというのだ。

この八幡神も、実に不思議な神である。渡来人が祀っていた八幡神は、歴史の舞台に忽然と登場し、瞬く間に第二の皇祖神の地位を獲得した。

日本における神の祀り方には、歴史的な変化があり、それにともなって数多くの謎が生まれた。その謎は容易に解けるものではないが、本来、放置しておいてはならないもののはずである。

いったい日本の神々とはどういうものなのか。日本人はそうした神々とどうかかわってきたのか。神仏分離によって見えなくなってしまったものがあるのではないか。それを考えることは、日本人の信仰の本質を考えることに結びついていくはずなのである。

宗教学者の父が娘に語る宗教のはなし

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