NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

生物と無生物のあいだ

「ウイルスは生物か、無生物か 〜生命科学が解き明かした驚きのウイルス像」
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48264

どこまでが「海」でどこからが「陸」なのか?

子供の頃、世界地図を見ていて不思議に思ったことがある。それは、どうして国境線は真っ直ぐに引かれてないのだろう? ということだった。

アメリカ大陸やアフリカ大陸などを見ると、真っ直ぐに引かれた国境が時々あるのに、多くの国境線は何か訳の分からない形になっている。どうしてそんなことをするのだ? 定規で真っ直ぐ線を引けばいいのに、ややこしいじゃないか、と思ったものだった。

少し大人になると、国に限らず地域を分ける境界線というのは、大きな川であったり、高い山であったり、元々そこに人の往来を妨げる障害物があって、それにより自然に形成されていくものなのだということが分かってくる(もちろん、国と国の境というのは何かと面倒な事情が絡んでいることが多いことも知るようになるのだが……)。

子供の頃、良いなと思って見ていた「真っ直ぐ」な国境線は、むしろ不自然なもので、それはそこに「人の生活」に基づいた自然な線が形成されておらず、ある意味、無理やりに国と国の境界線を決めた結果であったのである。

この「何かと何かの境」というものは、周囲を見渡せば無数に存在するし、そのことに何の疑いも持たずに常日頃、私達は生活している。しかし、国境線をどこに引くかが、時に大問題となるように、そのことも疑い始めると、簡単には答えられないものが実は多い。

例えば、海と陸地を考えてみよう。海は地球の表面にあって塩水で満たされた領域で、陸地は大陸や島など、その海に覆われていない領域のことである。その区別には何の疑いもないように思える。

しかし、では砂浜に出てみよう。そこを見れば分かるように、海には寄せては返す波があり、一体、そのどこで海と陸の境界線を引けば良いのだろうか? また、それに加えて干潮・満潮といった潮の満ち引きがあり、海岸線は1日で数十メートル移動することもしばしばである。一体、いつの境界が、海岸線なのか?


境界線をはっきり決めることの「気持ち悪さ」

国土地理院の地図では、1年間で最も潮が満ちた際の潮位(略〔ほぼ〕最高高潮面)で海岸線を描いているらしいが、実際には1年に数回しか見られないような線を海と陸の境界と言われても、何か真っ直ぐに引かれた国境線のように人為的な感が拭えない。

それが証拠に、例えば陸地からの距離で定められる領海の定義には、これとはまったく逆の最も潮が引いた際の潮位(略最低低潮面)が海岸線として使用され、そこからの距離で領海の範囲が決められる。

このように普通に考えれば、自明のものである、海と陸というまったく違った存在でさえも、その厳密な境界線というのは、そう簡単ではない。

では、逆に自然界にあるもので、明らかに境界が決まっているものとは何だろう? 人間にとって「疑いのない境界」というものが、何かあるだろうか? こう問われれば、幾人かの人は、「生」と「死」の境を頭に浮かべるかも知れない。「生きている」ことと「死んでいる」こと、あるいは「生物」と「無生物」。そこには相互の往来が不可能で、侵し難い境界線があるように思える。

分子生物学者の福岡伸一さんは、ベストセラー『生物と無生物のあいだ』のプロローグで、学生の時の大学教師が「人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか」と問うた、と書いている。

確かに生物と無生物の間には「瞬時に見分けられる」違いがあるように、直観的には思いがちである。しかし、それは本当に、そんなに単純な話なのだろうか? 生物と無生物、その境界の深淵に横たわるようにあるものは、この世に存在しないのか?

実は、それはあるのだ。と言っても「物の怪」でも「妖怪」でもない。それは“ウイルス”という存在である。ウイルスと聞くと、頭に浮かぶのはインフルエンザウイルスやエボラウイルスのような病原体であろう。動物や植物の病気、特に感染症の多くは微生物が原因となっており、普通、ウイルスもその一種と思われている。

確かにウイルスは感染すると、宿主の中で増殖して子孫を残し、環境の変化に応じて進化し、そして他の病原微生物がそうするように病気を引き起こす。その姿は、どう見ても、生きている生物のそれである。

しかし、宿主細胞から離れると、単純なウイルスならタンパク質と核酸だけになり、ただの物質である鉱物のように結晶化させることさえ可能なのである。

それはあたかも、陸と海の境にある波打ち際のようで、波が押し寄せてくれば(宿主細胞に入れば)、海(生物)のように見えるし、波が引けば(宿主細胞から出れば)、そこは陸地(無生物)である。


はたしてウイルスは生きものか、物質か

このウイルスという存在の奇妙さを明確にするために、例えば、こんなことを考えてみよう。

世界で初めて結晶化されたウイルスとして知られるタバコモザイクウイルス(TMV)は、約6000文字の遺伝子暗号を持っている。もちろんTMVは一旦鉱物のように結晶化しても宿主であるタバコの細胞に戻せば、また生物のように振る舞うことができる。しかし、このタバコウイルスが持つ遺伝子暗号の急所の並びをわずか数個変えてやれば、このTMVはもう「生物」の世界に戻れなくなる。感染性や増殖能を失うのだ。

たとえ物質としては同じタンパク質を持たせてやり、化学分析ではまったく同じ核酸組成であったとしても、その並びがほんの数個変わっただけで、このTMVは「生物」の世界から離れ、永遠に「無生物」世界の住人となり、文字通りただの核酸とタンパク質という物質になってしまう。

「生物」と「無生物」の境とは、たった数個の遺伝子暗号の並び、それだけで決まってしまうものなのか? それは我々の体から「魂」が抜ければ、我々もただの物質となり、朽ち果てて行く。そんなことを連想させる事実である。

このようなウイルスの半生物的で不思議な、この世界での有り様を、科学者達は古くから認識していた。だからそれを「生物」とするか「無生物」とするかには多くの議論があったが、現在の生物学では「ウイルスは生物ではない」とする結論に傾いている。

しかし、それは「真っ直ぐな国境線」のような、あるいは「略最低低潮面による海岸線」のような、どこか力ずくで人為的な線引きでもあった。

21世紀に入り、その状況に対する「ウイルスの逆襲」が始まっている。「波打ち際」をつぶさに観察すれば、それを一方的に陸地だとする線引きにどうしても齟齬が出てきてしまうように、科学の進展と共に力ずくでは抑え切れないウイルスの「生き物」としての側面が、次々と明らかとなっている。

このたび上梓した拙著『ウイルスは生きている』(講談社現代新書)では、これまでの生物学の常識とは逆に「略最高高潮面」から見た「波打ち際のウイルス達」の姿を、皆様にお届けしている。それは、近年の生命科学が解き明かした驚くようなウイルス像であり、どっぷりと海水につかり、生き生きとしたウイルス達の姿でもある。

彼らが漂う「波打ち際」。そこは海と陸という、まったく違った二つの相(フェイズ)が揺らぎの中に融合する、少し特別な場所でもある。そこにしか住処がない彼らを思うことは、実は生物とは何か、あるいは生命とは何かに対する真摯な懐疑、そのものでもある。

ウイルスは、決して「病」の原因となるだけの存在ではない。生命の一員として、この地球上で実に多様な役割を果たしている。それは“驚くべき巧妙さに満ちた”という形容が相応しいものである。そんなウイルス達の姿を是非、知って頂きたい。

ウイルスは生きている (講談社現代新書)

ウイルスは生きている (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)