198,000km
福田恆存に曰く、
物の中にはそれを造った人の心、それを所有し、使用している人の心が生きている。たとえば、親にとっての死児の遺品は決して単なる物とは言えない。自分の子供が愛玩していたおもちゃは、遺された親にとって、子供の心と自分の心とがそこで出会う場所であり、通い路なのであり、随(したが)って、それは心の棲家(すみか)なのであります。自分自身の所有品についても、自分が長年の間使って来た、つまり付き合って来た品物は事のほか愛着を覚え、吾々はそれを単なる物として見過ごす事は出来ないのです。消しゴムや小刀の様な些末(さまつ)なものですら、そしてそれがもう使うに堪えなくなったものでも、むげに捨て去る気にはなかなか成れないものです。この「こだわり」を「けち」と混同してはなりません。それはその物の中に籠(こ)められている自分の過去の生活を惜しむ気持ちであって、吾々はその物を捨てる事によって自分の肉体の一分が傷付けられ切り落とされる痛みを感じるのであります。