NAKAMOTO PERSONAL

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文化と教養と仏壇と

「『仏壇』が子供の情操に好影響 保有率低下の一方注目される効能」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/life/news/160129/lif1601290008-n1.html

 住宅事情の変化などを背景に、保有率の低下が進む仏壇。一方で、7割近い人が仏壇に手を合わせる習慣を持つほか、仏壇の存在が子供の情操面でも好影響を与えていることを示すデータがまとめられるなどしている。“仏壇離れ”は進むが、日本人の生活にとってまだまだ大きな存在であるようだ。


平成25年は4割

 ミニ仏壇や手元供養品などを扱う「インブルームス」(静岡市)の平成25年の調査によると、仏壇の保有率(2人以上で暮らす世帯)は39・2%だった。これを、住宅種類別で比較すると、一戸建てでは半数以上の51・8%が保有。マンションなど集合住宅では21・1%にとどまった。

 持ち家に比べて、面積が制限されるマンションでは、仏壇を置く空間が確保できず、それが保有率の低さにつながっているようだ。

 核家族や単身世帯など家族構成が小規模化していることも仏壇の保有率低下の一因になっている。多くの人が、仏壇を「釈迦(しゃか)や宗祖を祭る宗教的空間」とはとらえず、「亡くなった人を弔う空間」と考えている。そのため、「家族でまだ亡くなった人がいない」「1人暮らしなので、自分のための仏壇を持っても意味がない」といった理由で仏壇を持たない人も増えているからだ。

 経済産業省の商業統計によると、仏壇や宗教用具の市場規模はこの20年間で半減するまでになっている。


墓参りに次ぐ習慣

 とはいえ、仏壇は信仰や先祖供養にとって大切な空間となっている。

 第一生命経済研究所が18年に行った、「日頃どのような宗教的行動をとっているか」を尋ねた調査では、「仏壇や神棚に花を供えたり、手を合わせたりする」は7割近い人が実施していることが分かった。これは「年に1、2回程度は墓参りをしている」のおよそ8割に次いで高い数字となった。

 仏壇に手を合わせることを習慣としている人を年齢別にみると、40代では55・5%だったが、年齢が上がって65~74歳となると、81・4%もの人が該当した。

 仏壇があるとないとでは、先祖や故人に対する供養の気持ちに違いが生じているという調査結果もある。「インブルームス」の調査では、「先祖、故人に対して、供養が十分であると思うか」という質問に対して、「十分である」「どちらかといえば足りている」と回答した人は、仏壇保有者で63・0%、仏壇がない人は48・7%だった。


優しい子に

 仏壇参りと子供たちの「優しさ」の関係性を調査した面白いデータがある。

 線香や香の老舗である「日本香堂」(東京都)は昨年、“尾木ママ”こと教育評論家の尾木直樹さんの指導・監修で「子ども達の『供養経験』と『やさしさ』の関係性」を調査した。

 12歳から18歳の男女約1200人を、仏壇参りを「毎回」「時々」「しない」の3つのグループに分けて、他者への優しさに対する比較を行ったところ、明確な差が見られた。

 例えば、「誰かが悩みを話すとき『そんなこと知らない』とは思わない」という子供は「毎回」のグループでは56・6%なのに対して、「しない」のグループでは43・9%しかいなかった。「誰かが困っているとき、その人のためにそばにいたい」とする子供が「毎回」では45・6%いたのに対し、「しない」では33・2%と10ポイント以上もの差が開いた。

 仏壇業者らでつくる全日本宗教用具協同組合(全宗協)で広報担当をしている保志康徳さんは、「仏壇は心の文化や祈りの文化を継承する役割を担ってきた。仏壇に手を合わせるということが、感謝の気持ちを増幅したり、見えないものに対して畏敬の念を持ったりといった点で、いい方向に影響しているのではないか」とみている。


「誰かが悩みを話すとき『そんなこと知らない』とは思わない」という子供
「仏壇参りを毎回する」グループでは56・6%
「仏壇参りはしない」グループでは 43・9%


「誰かが困っているとき、その人のためにそばにいたい」とする子供
「仏壇参りを毎回する」グループでは45・6%
「仏壇参りはしない」グループでは 33・2%

 文化と教養とが一言に結びつくやうな文化が、また心して栽培し、みづから習熟するやうな仕来りや態度が、さらにその背景をなす宗教的な生き方が、今の日本には無い。それが現代日本文化の姿だといふことになります。が、それはあくまで現代日本文化の姿であつて、日本文化がつねにさうだつたわけではありません、文化が、あるいは文化といふ観念が、日本の歴史になかつたのではない。皮肉なことに、文化といふ言葉がむやみに使はれるやうになつた明治以前には、文化といふ言葉がなかつたかはりに、文化は立派にあつたのです。
 文化とは私たちの生き方であり、生活の様式であります。が、それはこれこれかういふものだと目の前に客体化しえぬものなのです。いはば理窟ぬき、問答無益の領域にのみ、それは成熟します。なぜそんな行動に出るのか、なんのためにさういふやり方をするのか、それを問はれても当人は答へやうがない。今の人間はいろいろ理窟を仕込まれてゐるので、なんとかそれに縋(すが)つて答へるかもしれませんが、そんな答へは本当の動機も目的も語つてはをりますまい。ただ昔からさうしてきたから、あるいはさうするやうに教へられてきたから、それだけのことでせう。それとも、さうしたいから、それが本音でありませう。さういふものが文化であり、教養であります。

── 福田恒存(『伝統にたいする心構』)