NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『「やさしさ」という技術』

「やさしさは”性格”ではなく”技術”だ! あなたの人生をときめかせる魔法のテクニック」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46882

ノーベル賞の選考委員会を擁する世界トップ医大・カロリンスカ医科大学で「学生が選ぶ最優秀教授」にかがやいた名医・ステファン・アインホルン。彼が書いた『「やさしさ」という技術』は人口900万人のスウェーデンで30万部を超える売上を記録した。やさしさは、資質ではなく、技術である――。そう説いたこの本が、なぜ一大センセーションを巻き起こすことができたのか?

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幸せな人生を送りたい、成功したいと願うなら、どう行動すればいいのだろう?

実践的な助言はたくさんある。だがあらゆる助言は結局のところ、誰もが知っていて、なおかつ過小評価されているふたつのメッセージに集約できる――。ひとつは、やさしい人になること。もうひとつは、ものごとを判断する際、つねにやさしさを基準にすること。

このふたつは、仕事にも社会生活にも精神面にも影響する。人生で成功するには、これらすべてがうまくいっている必要があるのだ。


手柄を手放せ、他人を褒めよ

「気前がいい」という言い回しを聞くと、多くの人はお金のことや心の広さを連想するだろう。一般に、お金や物を喜んで分け与えることが、気前のいい行為のひとつだと考えられている。

むろん、お金をばらまくことだけが気前のよさではない。だが興味ぶかいことに、経済面での寛大さと、分け与えたいという願望のあいだには関係があるようだ。一方、ケチな人は、人生のさまざまな局面で、他人からもらったものを貯めこむ傾向にある。

では、気前がいいとは、どういう意味だろう?

気前がいいということは、何の見返りも要求せずに行動することを意味する。交渉の場に臨んでも、商品やサービス、金銭など、何の要求も出さない。気前のいいふるまいというのは、見返りを期待しない単方向のコミュニケーションだ。

おどろくべきことに、見返りを期待しない行為は、結局は得になることが多い。

気前のいいふるまいのひとつに、名声を分け合うことがある。

私が研究責任の一部を同僚に引き継ごうと決めたとき、同時に多くの名声も引き渡す必要があると考えた。これからは、発見者として名前が出るのは研究チームの他のメンバーであって、私ではない。

おもしろいことに、「こうしよう」と決めた途端、私はこれまでに味わったことがないほど大きな解放感を感じた。もはや自分で研究テーマを探す必要がなくなったのだ! 私は、彼らが重要だと思っていることだけをすればいい。彼らは信頼できる人なのだから。

私の父(訳注:イェジ・アインホルン。ノーベル医学生理学賞の選考委員を務めたことでも知られる、がん研究の権威)は、しばしばアメリカ大統領ハリー・トルーマンの言葉を引用してこう言った。

「名声を得るのは誰か? それさえ気にしなければ、すばらしい偉業をなしえる」

そして父は、いつもこの原則にしたがって仕事をしていた。いい仕事をするには、仲間に気前よくあれ――。

その結果、父は医師としても研究者としても、その後は議員としても作家としても成功を収めたのだ。

私たちには、自分の領域を死守しようとする傾向がある。人はふつう、自分がよいことをしたら、それに値する栄誉を受けようとする。自分が達成したことは他の誰もなしえなかったことであり、世界中が自分を褒め称えるだろうと考える。思ったほど賞賛されなければ戸惑い、不当だとさえ感じる。そして「こんなはずじゃなかった、自分はもっと賞賛されるべきだ」と憤慨するのだ。

こうした考えかた――他人には分け与えたくないし、他人の栄誉に寛大になりたくない――はさもしい。だが心配する必要はない。この世界は実によくできている。最終的には帳尻が合うのだ。わずかな栄誉しか手に入らないこともあれば、達成したこと以上の栄誉が手に入る場合もある。

だから私たちは、心穏やかに座っていればよく、何も心配する必要はない。一度負けても、またチャンスがめぐってくる。他人の栄誉に寛大であれば、それをまた手に入れられる。というのも、おどろくべきことに、「栄誉」というのは譲った以上のものが返ってくるのだ。


上司だって褒められたい

気前のよさは、これ以外の方法でも発揮できる。

たとえば賞賛や激励だ。身にあまる賞賛や激励を受けたことがあるかと聞かれたら、イエスと答える人はほとんどいないはずだ。多くの人は十分に褒められたことがないと感じている。

誰もがみな、周囲から褒められたいと望んでいる。だが不思議なことに、自分からすすんで他人に賞賛を贈ろうとしている人は少ない。他人を褒めたたえれば、自分が負けたように感じる人もいる。それは正しくない。1円のコストもかけずに分け与えることで、得られるものもあるのだ。

「褒めるのは立場が上の人間の役割だ」といった誤解も正す必要がある。子供や生徒や部下にとって両親や先生や上司から褒められる体験が必要だというのは、誰もが理解している。だが当の両親や先生や上司も、ときには「よくやったね」と言われたいのだ。

職場においては、非難が出ないことが最大の賞賛となることもある。このことに気づいたとき、私は泣きそうになった。賞賛とはあらゆる意味において自由なものであって、贈るのに何ら制約のないものなのである。


批判をしないのは相手が成長する機会を奪うこと

しかし、あなたが他人に差し出すべきものは、激励や賞賛だけではない。相手が成長し学ぶためには、ポジティブな批判も必要だ。それなのに人は、ポジティブな批判をせずにすまそうとすることがある。

では、ポジティブな批判とは何だろう?

それには3つの条件がある。ひとつは、個別に与えられることだ。ふたつめは、相手が成長するための批判であること。相手をやっつけるための批判や腹いせのための批判、そして批判の押しつけは絶対に避けるべきだ。

3つめは、ポジティブな批判には「愛」があるということ。愛という言葉の意味が広すぎるというなら、「仲間意識」あるいは「思いやり」と言い換えてもいい。思いやりの気持ちを忘れずに、相手が成長するために必要不可欠なことを知らせてあげればいい。

では、口臭のひどい同僚に対して、そのことをはっきりと伝えるべきだろうか? 多くの人は「伝えるべきでない」と答えるだろう。伝えるのは無礼だという人もいる。同僚に対してそんなことを告げる勇気がなかったり、悪いとわかっていても煩わされたくなかったりする人もいる。

口臭のひどいことに無自覚な人は、場合によっては社会から孤立しかねないというハンデがあることに気づいていない。それを気づかせてあげれば、同僚に新しい人生が拓ける可能性がある。臆病だからといって、相手の可能性を広げようとしなくてもいいわけではない。

人が成長し、学ぶチャンスを奪うのは意地悪なふるまいだ。私たちはポジティブな批判をする必要がある。だから、相手に寛大であるべきだ。愛情と思いやりのある人から批判やフィードバックが得られると、どんなに耳が痛くても、人は感謝の気持ちでそれを聞く。

その後、その批判をもとに何をどう改善するかは、その人しだいだ。すべてを聞き入れる必要はないが、ポジティブな批判を受け入れ、そこから何かを学ぶことができる。ポジティブな批判は、私たちが学ぶことのできる真実を含んでいるのだ。

ここまで述べてきたように、他人に助言を求めれば、求めた自分はもちろん、助言をくれた相手も得をする。だから、他人に助言を求めるのはいいことだ。

何年か前、医療情報サービスの開発にたずさわったことがある。この仕事が終盤にさしかかったころ、クライアントは、私たちが心血を注いで作ってきた製品は自分たちにとってほんとうに必要なものなのか、そうだとしてもどうやってそのサービスを広めていったらいいのかと、疑問を持ちはじめた。

そこで私たちはクライアントの代表たちに集まってもらい、意見を聞いた。すると、最初のうちこそ厳しい批判的意見が出たものの、それはしだいに生産的な批判に変わり、会議が終わるころには有益なアイデアが多数集まった。それだけでなく、サービスの開発作業にも積極的に協力してくれるようになったのだ。


自分の欠点や失敗をオープンにする

多くの人は、自分が周囲に与える印象を大切にする。それは決して悪いことではない。完璧な人間はいないし、誰もが自分が完璧とはほど遠いと知っている。

だからこそ、自分の欠点や失敗をオープンにすることが、気前のよさを発揮するもうひとつの方法だ。そうすれば他の人が自信を持つ助けになる。

多くの人が知らずにかかっている、やっかいな症状がある。いわゆる「インポスター(詐欺師)症候群」で、自己評価が極端に低い傾向のことだ。インポスター症候群の人は、こんな不安に日々さいなまれている――「自分は一見まともだが、実はろくでもない無能で、誰にでもできることができない。今はどうにかごまかせているが、いつか化けの皮がはがれてしまうのでは……」

インポスター症候群にかかっている人は多い。そんな人に「あなたは他の人よりも劣ってなどいない」と納得させるには、まずあなたが自分の欠点や失敗をオープンにするといい。そして自分自身に対しては「自分が思っているほど、周囲は優秀ではない」と言い聞かせるのだ。

欠点や失敗に寛容になるには、思いやりをもって行動すること。マゾヒズムや自己虐待がいいことだと思っている人は、まずいない。

人間は、他人のまねを通じて学習する。赤ちゃんは親のふるまいをまねながら成長し、新しいことを覚えていく。よく知られているように、歩いたり、手を使ったりするのは、教えられてできるようになるわけではない。赤ちゃんが言葉を覚えるのも、どこかで秘密の講習を受けたからではないのだ。

日本の音楽教育家、鈴木鎮一は、歌鳥がどうやって美しい歌を覚えるのかを研究したことがある。そこでは、生まれたばかりの鳥が、特に歌のうまい「先生鳥」と同じ鳥かごに入れられていた。生まれたばかりの鳥は、先生鳥の歌をまねて歌うが、最初はうまく歌えない。

だが時がたつにつれて、きれいに歌えるようになり、ついには第二旋律を歌うまでになった。鈴木はそれをヒントに、子供たちがさまざまな楽器を習得する方法、「スズキ・メソード」を開発した。

残念ながら、歳をとるにつれて「人まねは恥ずかしいことだ」と思いこまされるようになる。だがそれはまちがいだ。

模倣というのは、実におどろくべき学習方法だ。私たちは、自分が得意なことを他人に模倣させることによって、気前のよさを広められる可能性を有している。自分ができることを進んで他人に教えれば、他人を模倣し、そこから学ぶことにも抵抗がなくなるだろう。他人に気前よくあれば、反対に、他人からも気前よく接してもらえるチャンスが増える。

では、気前よく接してもらったことのない人から何かを教えてもらいたいときは、どうすればいいだろう? 

こう言えばいい。「すごくお上手ですね! どうしたらそんなふうにできるんですか?」。相手はうれしくなって、自分の知恵を喜んで教えてくれるはずだ。

まねることを恥じる必要はない。他人がどんなふうにやっているのか、その方法をどんどん聞けばいい。

人のやりかたをまねてみよう。他人から学び、自分からも積極的に教えよう。そうすれば模倣も許される。人まねはむしろ、いいことなのだ。

「気前よくあること」のなかでも特に難しいのは、他人の成功を心から喜ぶことだ。私たちは自分と他人を比較しがちで、自分はそれほど不幸ではないと思いたいがために、他人の不幸や失敗を望むことさえある。

この点については、私たちは考えを改めるべきだ。というのも、他人の成功を喜ぶ寛大さがなければ、自分も成功することはできないからだ。

他人が不幸になったときに――内心では相手の不幸を喜んでいることを隠しながら――やさしい言葉をかけたり大げさに励ましたりする、意地悪な人もいるかもしれない。だが、相手や周囲はあなたが考えているよりもずっと敏感であることを忘れてはいけない。さらにいえば、他人の成功を喜べるようになれば、自分の成功だけを喜ぶよりも、よりいっそう幸せな気分になれるのだ。


親切とは見返りの多いものである

人はなぜ、他人に気前よくあるべきなのだろう? なぜ自分に必要なことだけをして、他人に無頓着ではいけないのだろう? なぜ自分が成功するために他人を踏みにじって前進してはいけないのだろう?

仲間に公平に接するためという倫理的な理由以外にも、人に寛大であるべき理由がある。

他人に寛大であれば、自分にとっても得になるからだ。

仲間に寛大になると、人生がよりすばらしいものになるのはなぜか? 

ひとつには、寛大な人は周囲との軋轢が少ないからだ。器の大きい人は他人と競おうとしないので、他の人たちも競い合おうとせずに協力し合い、すべてが丸く収まるようになる。

第2の理由は、仲間に気前よくあれば、自分も気前よく接してもらえるからだ。前にも触れたが、ある研究によると、人は、寛大な人に対しては寛大な態度で接することがわかっている。たとえその寛大さが自分以外の人に向けられていたとしても、もしかしたら自分にも寛大に接してくれるかもしれないという期待を持つ。

人は、やりかたは変わっても相手に同じ行為を返すものだ。作家のマーク・オートマンはこう語っている。「親切であることをやめるのは難しい。なぜなら見返りの多いものですから」。やめるのが難しいのは親切だけではない。気前よくあることも同じである。

第3の理由は、他人に寛大だと自分も楽しいからだ。人間の脳は、他人に何かいいことをすると満足感が得られるようにできている。おいしいお菓子を独り占めするよりも、みなで分けて食べるほうがずっとおいしいということは、多くの人に納得してもらえるだろう。

第4の理由は、ざっくりと言うと、寛大な心と善意で他人に接すれば、結局は自分の得になるという法則だ。これは、それほど突拍子もない話ではない。新約聖書の「マルコによる福音書」にこんな一節がある。

「しかし、あなたがたのあいだでは、そうではない。あなたがたのなかで偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい」

私自身は不可知論者だが、この言葉は真実を含んでいる。つまり、他人に少しでもいいことができるように人生を送ろうとすると、あなた自身、人として成長するのだ。

見返りを得る方法はいくつもある。まず何よりも親切であること、他人に尽くすこと。そして同時に、自分自身にも尽くすことだ。

気前のよさは、やさしさを示すとてもいい手段だ。ここでは寛大になるための方法をいくつも紹介した。寛大であれば、他人も得をして、あなたも得をする。だから気前よくあってほしい。特に、あなた自身に対して寛大であってほしい。

そして覚えておいてほしい――大切なのは、よいことをする「動機」ではない。「行動」なのだと。


最悪の養護施設で「たったひとり健康に育った赤ん坊」

1930年代に、ルネ・スピッツというオーストリア人医師が児童養護施設を訪問した。

そこにはたくさんの子供がいたが、スタッフの数が足りておらず、ほとんどの子供は誰にもかまわれていなかった。子供たちは身ぎれいで、食べ物も与えられていたが、人との触れ合いに欠けていた。ほとんどの子供は無感動で、発育も不十分だった。なかには、病名すらわからないまま衰弱して死んでしまう子供もいたという。

だがおどろくべきことに、子供たちのなかにひとりだけ、はつらつと順調に成長している子がいた。スピッツは、この子の成育過程を研究することにした。

この施設では、子供たちが寝ている間に清掃スタッフが部屋の掃除をしていた。夜中に施設内を観察していたスピッツは、ある光景を目撃する。清掃スタッフのひとりの女性が、掃除が終わるとかならず入口脇のベッドに寄って、二段ベッドの下の段に寝ているその子を抱き上げては、抱きしめたりなでたりしていたのだ。ほんの一瞬である。ただし毎晩。このベッドに寝ていたおかげで、その子は順調に成長することができたのだ。

スピッツ児童養護施設の子供について、興味ぶかい研究報告書をいくつも残している。それによると、愛情に満ちた人と接する機会のない子供は、最低限しか成長できず、人から関心を払ってもらえた子供よりも寿命が短くなるという。

この説の信憑性には疑問が残らないでもないが、ここには真実がある。ただ目を向けるだけでも、隣人に大きな影響を及ぼすことができるのだ。子供は成長し、成熟して責任能力のある大人となるために、見守られて愛されなければならない。食べ物と清潔な衣服だけでは不十分なのだ。

健全に成長するには、人から目をかけてもらうことが重要なのは、子供にかぎった話ではない。大人も、人から見られないと心が弱っていく。精神分析の父ジグムント・フロイトはこう語っている。

精神分析とは結局のところ、本質的に愛情を通じて治療することなのです」

また、仲間に目を向ければ、その人を癒やすことができるというのも、まちがいのない真実である。

さて、以下の状況を、あなたはいくつ経験したことがあるだろう?

  • あなたは知人と食事をしている。相手の身の上話に、あなたは興味ぶかく耳を傾けていた。ところが、相手は食事が終わるまであなたの話を何も聞いてこなかった。
  • あなたは知人に自分の身の上話をしていた。話の途中で一息つくと、相手は「私にも同じような経験があるわ」と、自分の話を始めたが、その話はちっとも「同じよう」ではなかった。
  • 知人と話をしているあいだじゅう、相手はずっと明後日のほうを見ていて、明らかに他のことを考えているようだった。
  • 廊下で知人とすれちがって挨拶をしたが、相手は目を合わせてくれなかった。

どうだろう。どれひとつとして経験したことがない人はいないのでは?

生きていると、毎日、出会いがある。自宅、職場、学校、バス、レストラン、歩道、パーティ……。私たちは誰かと出会うたびにどうふるまうかを判断している。周囲とどのような関係を築くかを、日々選択しているのだ。

出会いはどれもが可能性を秘めている。相手にとっても、あなた自身にとってもだ。ところが私たちは、他人との関係を機械的に維持することに忙殺されて、出会うたびに立ち止まり、相手を見ながら話を聞く時間はなかなかない。

子供は、何のてらいもなくこちらを見つめ、「かまって」と甘えることができる。甘えてもうまくいかない場合は大声で騒いで注意を引く。大人には同じことはできない。

だから、注意を引く唯一の方法は、他人に注意を向けることだ。自分自身が他人を見て、話を聞くことで、他人からも振り向いてもらえるようになる。

「疲れていて人の話を聞く元気がない」と言う人がいる。だがそれはまちがいだ。私たちは他人にかまってもらえないと衰弱していく生き物である。一方で、意味ある出会いがあれば元気になれる。他者に目を向けることは、やさしさのひとつの形だ。ほんとうのやさしさは、結局は自分の得になるのだ。

「やさしさ」という技術――賢い利己主義者になるための7講

「やさしさ」という技術――賢い利己主義者になるための7講