NAKAMOTO PERSONAL

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一日一言「天地の力」

十一月二十三日 天地の力


 今日は新嘗祭天皇が新米を天地の神に供え、自らもこれを食する祭事。今は勤労感謝の日となっている)で、新しくとれた米を神に捧げ、感謝する日である。われわれは、毎日三度いただく食事を当然のように考えて、米の一粒のうちにどんなに大きな神仏の恵みを受けているかを忘れている。天地の力はみな穀物にあり、点の恵み、地のたまもの、人の働き、国の恩など、あまりに多く忘れがちである

── 新渡戸稲造(『一日一言』)

勤労感謝の日。「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日。
本来は、秋の収穫を祝い感謝する新嘗祭


福田恆存に曰く、

 戦後の祝日の名称はまつたくでたらめで、抽象的な浅薄さをもつてゐる。「成人の日」「春分」「秋分」「こどもの日」「文化の日」「勤労感謝の日」。かうしてみると、一目瞭然だが、新時代、新世代から、やれ、天皇制だ、旧思想だと文句をいはれぬことだけしか念頭にない消極的防御姿勢から出てゐるのである。

 私たちの春は分散してしまひ、宗教と習俗とは緊密な結びつきをもたず、今日では、正月がもつとも大きな国民的祭日となつてゐる。が、太陽暦の正月は、春の祝ひとして、年季のよみがへりとして、かならずしも適当な日ではない。正月をすぎて、私たちは古き年の王の死を、すなはち、厳冬を迎へるといふ矛盾を経験する。しかも、さういふ矛盾について、ひとびとは完全に無関心である。アスファルトやコンクリートで固められた都会的生活者にとって、古代の農耕民族とともに生きてゐた自然や季節は、なんの意味ももたないと思ひこんでゐる。文明開化の明治政府が、彼岸を秋分の皇霊祭としたのは、天皇制確立のためではあつたが、今日の似非ヒューマニストよりは、まだしも国民生活のなかに占める祭日の意義を知つてゐたのだ。ヒューマニストたちにとつては、雛祭も端午の節句も、季節とは無関係に、たゞ子供のきげんをとるための「子供の日」でしかない。つまり、レクリエイションなのである。が、雛祭より「子供の日」のはうがより文化的であり知的であると考へるいかなる理由もありはしない。が、私たちが、どれほど知的になり、開化の世界に棲んでゐようとも、自然を征服し、その支配から脱却しえたなどと思ひこんではならぬ。私たちが、社会的な不協和を感じるとき、そしてその調和を回復したいと欲するとき、同時に私たちは、おなじ不満と欲求とのなかで、無意識のうちに自然との結びつきを欲してゐるのではないか。

── 福田恆存『日本への遺言―福田恒存語録』


「【主張】勤労感謝の日 多くの働きに生かされる」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/151122/clm1511220005-n1.html

 23日の「勤労感謝の日」にちなみ、「働く」ことの本質的な意味について考えてみたい。

 戦前の祭日だった新嘗祭(にいなめさい)に由来するこの日、宮中では新嘗の祭儀が行われる。天皇が神々に新穀を供え、自らも食することで、国に実りをもたらす力を得るとされる。

 秋の収穫は民間でも古くから祝われてきた。農作業に携わる人だけでなく、農具の製造にかかわる人など直接目には見えない多くの人の働きにも、さらには季節をめぐらせてくれる天体の働きにも、「おかげさまで」と感謝してきたものと思われる。

 勤労感謝の日は、あらゆる働きが世のため人のために役立っているのを実感する日でもあろう。

 日本人の勤勉さは世界でも定評があり、日本人自身もまた勤勉を重要な徳目としてきた。心のどこかにきっと、自らの労働が何らかの形で人の役に立っているという喜びがあるのに違いない。

 「駕籠(かご)に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人」という有名なことわざがある。同じ人間でありながら境遇には差があり、現代の「格差社会」にも通じるものだと解される場合もあるが、「人と人との社会的なつながりを示すたとえ」(広辞苑)でもあることに目を向けたい。

 草鞋を作る人がいなければ駕籠も担げず、駕籠に乗る人がいてこそ担ぐ人の暮らしも成り立つ。社会はさまざまな働きが機能しあいながら回っているのであり、俗説にいうように「働くとは、傍(はた)を楽にすること」でもあろうか。

 北里大特別栄誉教授の大村智さんは、土壌の微生物が作り出す化合物を改良して寄生虫病治療薬を開発した功績により、今年のノーベル医学・生理学賞受賞の栄に輝いた。世界中で治療薬に救われた人は数知れない。

 その大村さんが語った。「微生物のおかげです」-と。

 謙遜の発言であるにしろ、この言葉は、ごく微小な生き物のあまりにも大きな力を改めて気づかせてくれた。人はそのような力にも助けられて生きているのだ。

 収入など個の利益を考えるのは大切ではあるが、昨今はそれだけで労働の価値を測る風潮があるようにも見える。国内外で企業の不正が相次いでいるのもあるいは、「働く」ことから「世のため人のため」という大義が失われつつあることの表れかもしれない。