NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『吹雪物語』

「【福嶋敏雄の…そして、京都】(46)坂口安吾 原稿用紙1000枚持ち“吹雪の京都”に 無頼派の寵児、転換させた伏見稲荷の袋小路」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/west/news/151103/wst1511030003-n1.html

 のちに無頼派と呼ばれるようになる作家、坂口安吾がドテラ姿に小さなトランクをぶらさげて京都駅を降りたったのは、昭和12(1937)年2月であった。トランクの中には、なにも書かれていない1千枚ばかりの原稿用紙がつまっていた。

 京都の底冷えは、綿入りのドテラぐらいでは防ぐことはできなかった。安吾はふるえた。ふるえたのはカラダだけではない、その精神も底冷えの中にあった。このとき、31歳であった。

 最初は嵯峨に住む知人の家に居候をしていたが、まもなく伏見稲荷大社の近くにある計理士宅の2階に下宿し、猛烈な勢いで小説を書きはじめた。

 700枚におよぶ長編小説『吹雪物語』である。後年に書かれたエッセー「『吹雪物語』再版に際して」には、

 「この小説は私にとって、全く悪夢のような小説だ」

 と書かれているように、難解かつ観念的な小説である。簡単にストーリーを紹介することもできない。

 以来、安吾は『吹雪物語』のような作品は書かなくなる。そういう意味では、安吾文学の転機ともなった作品である。

 その年の5月には脱稿し、以来、書きあげた原稿を机の上にほっぱらかしたまま、京都にとどまりつづけた。計理士宅から引っ越した京阪伏見稲荷駅ちかくの弁当仕出屋の2階では、碁会所まではじめ、酒と碁打ちに明け暮れる日々であった。

 JR奈良線稲荷駅を降りると、すぐ東側に広大な敷地をもつ伏見稲荷の鳥居や社殿がある。最近はバックパッカーの外国人ばかりが目立つが、安吾も下宿先から5分ほどで行ける境内をよく散歩した。

 だが安吾は社寺や名所旧跡には、ほとんど興味をしめさなかった。用事があって銀閣寺ちかくに行き、ついでに境内に入ったが、「箱庭のようにくだらぬ庭で腹が立った」(エッセー「孤独閑談」)と罵倒するしまつである。稲荷大社についても、なにも書きのこしていない。

 稲荷駅のすぐ西側には琵琶湖疎水が流れ、駅舎の真下は土手がえぐられたような平地になっていた。疎水をあがってきた運搬船の船着き場の跡であろう。

 なぜこんなところに疎水が流れ、船着き場があるのかと、いぶかしい思いにとらわれたが、当時の地図を見て納得した。疎水のすぐ西側には、陸軍の兵器支廠と火薬庫、さらには練兵場があった。おそらく疎水で軍需物資などを運んだのだろう。

 兵器支廠まえの道は、現在も「師団街道」と呼ばれている。街道から50メートルほど東側に行ったところの入り組んだ路地の一画に、かつての計理士宅らしい民家を探しあてた。木造の2階建てのままだった。

 この路地を北にあがって行くと、稲荷前の商店街にでる。安吾のエッセー「古都」によると、碁会所をはじめた弁当仕出屋は、

 「溝の溢れた袋小路。昼も光のないような家。いつも窓がとじ、壁は落ち、傾いている。溝からか、悪臭がたちこめ、人の住む所として、すでに根底的に、最後を思わせる汚さと暗さであった」

 というような建物であった。探してみたが、そんな場所は見つからなかった。

 安吾の京都時代は1年4カ月におよんだが、文学史的にはあまり注目されていない。だが以降、『イノチガケ』や『日本文化私観』といった重要な小説やエッセーを書き、戦後になって無頼派の寵児(ちょうじ)として多くの傑作を書きまくった。

 ふたたび、「『吹雪物語』再版に際して」によれば、「私は始めの目的通り、私の過去に一つの墓をつくった」のが京都時代であった。過去という「墓」をつくったあと、酒と碁打ちに明け暮れながら、創作のエネルギーをマグマのようにためこんでいたのであろう。

 「欲望の真実を積極的に押しだしてみようたつて、所詮無理だね。一方縫えば、一方破れる種類のものだよ。怖れと羞恥の暴力の前では、欲望の足掻きぐらゐが、どうなるものか。結局積極的に弥縫びほうしようとする企ては、不可能でもあり、また有害無役なものであるとも考へざるを得ないのだ。人間は鋼鉄のやうに強くはない。むしろ否定的な暴力の苦をいくらかでも軽減するために、それと狎れ合ひの加工の人生をつくることだね。今どき、幽霊の恐怖だの、口説の羞恥だの、さういふくだらない負担にすら尚悩まされがちな人間を考へただけで、うんざりせずにゐられない。否定的な暴力を一枚づつはぐらかすやうに加工しながら、巧みに生きぬけるやうにすることだ。怖れや羞恥の対象も常に変つてくるだらうが、こつちは常に一足先手を打ちながら、一生加工しぬくんだね。そのほかに、賢明な策は、あいにく僕に見当らないのだ」

── 坂口安吾(『吹雪物語 ―夢と知性― 』)

吹雪物語 (講談社文芸文庫)

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