NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

ツァラトゥストラはかく語りき

隣人愛について


 諸君は隣人にむらがってそれに美名を与えている。だが言おう。君たちの隣人愛は、君たち自身をうまく愛することができていないということだと。
 君たちはおのれ自身からのがれて、隣人のもとへ走る。そしてそのことをひとつの徳に仕立てようとしている。だが、わたしは諸君の「無私」の正体を見抜いている。
「汝」は「我」よりも旧い。「汝」は聖なるもとして語られたが、「我」はいまだそうではない。だから人間は隣人へと殺到する。
 わたしが、諸君に隣人愛を勧めると思うか。わたしがむしろ勧めるのは、隣人からの逃走であり、遠人への愛だ。
 隣人への愛より高いもの、それは遠人への愛、来るべき人への愛だ。人間への愛より、物事や幻影への愛の方が高い。
 わが兄弟よ。君に先だって行く幻影は、君よりも美しい。なぜ君はそれにおのれの骨肉をあたえないのか。だが君は幻影を怖がって、隣人のもとに走る。
 君たちは自分自身に耐えることができない。そして自分自身を十分に愛していない。だから諸君は隣人を愛へと誘い、そのあやまちで鍍金(めっき)しようとする。
 諸君があらゆる隣人に、また近隣の者たちに、耐えられなくなればいいと思う。そうすれば、君たちはおのれ自身から、友とあふれんばかりの心情とを創り出さねばならなくなる。
 君たちは自分をよく言われたいとき、証人を連れてくる。そして証人をたぶらかして、自分のことをよいと思い込ませる。すると、君たちは自分自身をなかなかのものだと思うようになる。
 自分の知に背いて語る者だけではない、自分の無知に背いて語る者こそ、虚言を弄する者だ。だから君たちは隣人と交際するときに、みずからのことについて語ることによって、自分も隣人も騙すことになる。
 道化は言う、「人間の交際は性格をそこなう。とくに性格のない者はそうなる」と。
 ある者は自分をさがして隣人のところに行く。またある者は自分を無くしたくて隣人のところに行く。自分自身をよく愛することができないから、君たちの孤独は牢獄になってしまう。
 諸君の隣人愛は、そこに居ない者を犠牲にする。君たちが五人集まれば、いつも六人目が血祭りにあげられる。
 君たちの祝祭をわたしは好まない。そこにはあまりに多くの俳優があらわれたし、観客も幾度となく俳優のように振る舞った。
 わたしは諸君に隣人を教えない。友を教える。友こそ諸君の大地の祝祭であれ。そして超人への予感であれ。
 わたしは諸君に友を、そしてその満ちあふれる心情を教える。だが、満ちあふれる心情ををもって愛されたいと思うなら、海綿になることを心得ていなければならない。
 わたしは諸君に友を教える。そのなかで世界がすでに完成している、善の受け皿である友を。──完成した世界をいつでも贈ろうとする、創造する友を。
 この友のために、かつて繰り広げられた世界は、ふたたび巻きおさめられる。悪による善の生成として、偶然による目的の生成として。
 もっとも遠い未来こそが、君の今日の動機であれ。君の友のなかで、君はみずからの動機としての超人を愛さなくてはならない。
 わが兄弟よ。わたしは諸君に隣人愛を勧めない。わたしは諸君に遠人への愛を勧める。


 ツァラトゥストラはこう語った

── ニーチェ(『ツァラトゥストラかく語りき佐々木中 訳)


1900年8月25日 フリードリヒ・ニーチェ


同情や隣人愛を否定し、超人への道を説いた。
同情や隣人愛へ逃げるのではなく、弱い者が身を寄せ合うのではなく、独りの人間として力強く生きて行く。
それが、“力への意志”であり、“超人”への道である。

「私の理想は、目障りにならぬような独立性、それとわからぬ静かな誇り、つまり、他人の名誉や喜びと競合せず、嘲弄にも耐えることによって得られる、まったく他人に負い目のない誇りである。このような理想が、私の日常の習慣を高貴なものにせねばならぬ。」

── フリードリヒ・ニーチェ『遺された断想』

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

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