NAKAMOTO PERSONAL

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一日一言「気が導く」

八月二十四日 気が導く


 安政六年(西暦一八五九年)の今日、大学者の佐藤一斎(江戸後期の儒学者)が八十八歳で亡くなった。彼の著書『言志録』でこう言っている。
「人の魂には、目に見えない働きであって、それは体にいっぱいある。人が事をなすときは、その気が先に立って導くもので、技能や芸術もそれと同じである。」


   地獄餓鬼畜生阿修羅仏菩薩
      なにに成らうとままな一念

── 新渡戸稲造(『一日一言』)



西郷隆盛のバイブル『言志四録』を読む」(PRESIDENT Online)
 → http://president.jp/articles/-/2818

『言志四録』が座右の書だった

 「日本の維新革命は西郷の革命であった」

 「維新の英傑」西郷隆盛の功績を、内村鑑三は著書『代表的日本人』でこう評し、その理由を次のように述べている。

 《たしかに西郷の同志には、多くの点で西郷にまさる人物がいました。経済改革に関していうと、西郷はおそらく無能であったでしょう。内政については、木戸や大久保のほうが精通しており、革命後の国家の平和的な安定をはかる仕事では、三条や岩倉のほうが有能でした。(略)

 それにもかかわらず、西郷なくして革命が可能であったかとなると疑問であります。必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、「天」の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました》

 内村鑑三が指摘する、維新革命の原動力となった「西郷隆盛の精神」。それは簡単に説明できるものではないが、その支柱の一つに『言志四録(げんししろく)』があったことは間違いない。

 今日「人生訓の名著」「指リーダー導者のためのバイブル」と言われる『言志四録』は、江戸時代末期の儒学者佐藤一斎(さとういっさい)が著した随想録である。42歳で筆を執った『言志録』を皮切りに、『言志後録(こうろく)』『言志晩録(ばんろく)』を著し、最終作となる『言志耋録(てつろく)』を書き上げたのは82歳のときだった。耋録の耋とは字のごとく老いに至るという意味である。後にこの4書を『言志四録』と総称するようになった。内容は学問修養の心得、倫理道徳の規範から、指導者論、そして処世の教訓、身体の養生法まで多岐にわたっている。

 あわせて1133条。西郷はそこから101条を撰び、修養の資(もと)としていた。西郷の死後、叔父宅に保存されていたのを、儒学者だった秋月種樹(たねたつ)が注釈を加えて『南洲手抄(なんしゅうしゅしょう)言志録』として刊行した。これにより、西郷が『言志四録』を座右の戒めとしていたことが、広く知られたのである。

 ちなみに、南洲とは西郷の雅号で、明治に入ってからは、南洲、南洲翁おうなどと呼ばれるようになった。手抄とは手ずから書き抜くことである。『言志四録』の著者佐藤一斎は、昌平坂学問所の儒官、現在でいえば東京大学の総長まで務めた儒学者である。門下には、佐久間象山横井小楠山田方谷(ほうこく)らがいて、佐久間象山には勝海舟吉田松陰が薫陶を受けるなど、一斎の教えに接した幕末動乱の志士は少なくない。

 しかし、西郷はその謦咳に接する機会に恵まれなかった。西郷が『言志四録』を読んだのは、二度目の流罪先、沖永良部島の獄中だった。行李3箱分の書物を読破し、「学者の塩梅(あんばい)にて可笑(おか)し、学問はおかげにて上がる」と年賀状に記しているほどだが、なかでも心動かされた書物が『言志四録』だったのである。

 流罪が解け沖永良部島を脱した西郷は、内村鑑三言うところの「始動させる原動力として」、革命=維新という運動を猛烈な勢いで遂行していった。『言志四録』は、どのようにその精神的支柱になっていたのだろうか。『南洲手抄言志録』を編纂(へんさん)した秋月が、条文との符合を試みるかのように、自らが伝え聞く西郷の言動を注釈として加えている。それを手がかりに、西郷にとっての『言志四録』をみてみよう。

 人生行路のうちには、暗い夜道を行くようなことがあるが、暗夜を心配することなく、ただただ自分の強い意思を頼りにするがよい、という意味である。

 この条文の注釈には、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍の砲声を聞いて戦況に不安を覚えた岩倉具視に、西郷が「ご心配には及びません、西郷がおりますから」と答えたことが記されている。

 大政奉還によって倒幕が成就したものの、政治的には「暗夜」状態にあり、新政府樹立への強い思いを「一燈」として、西郷が戊辰戦争を突き進んでいった、と読み解けそうだ。

 もう一条触れておこう。

 意味は以下のとおりである。

 心から出てくるつまらない考え、外から入ってくる感情は、志が確立されていないからだ。しっかりと志が立っていさえすれば、邪悪な考えなどはすべて退散してしまうものである。これは清らかな水が涌き出ると、外からの水は混入できなくなるのにたとえられる。


革命の仕上げに西郷が懸けた「命」

 この条文には、明治4(1871)年に廃藩置県を断行するにあたっての、西郷の発言が記されている。南洲曰(いわ)く、「吉之助の一諾(いちだく)、死以(しもっ)て之(これ)を守る」と、他語を交えず。

 吉之助とは西郷の名前である。みなさんの意向は承諾した。廃藩置県の遂行にはわが命を懸ける、と覚悟のほど、つまり「一志」を示したのである。

 当時は、新政府に移行したものの、徳川時代の300諸藩主はそのまま存在していた。旧勢力の権力を奪い取るという、革命の仕上げが廃藩置県であった。しかし、それは構想した木戸と大久保だけではなしえず、西郷という原動力を借りざるをえなかったのだ。

 維新の原動力となった西郷がどれほど『言志四録』を味読し、修養に資していたか。その足跡が窺えるようではないか。

『1489夜『言志四録』佐藤一斎|松岡正剛の千夜千冊』 http://1000ya.isis.ne.jp/1489.html


言志四録(1) 言志録 (講談社学術文庫)

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