NAKAMOTO PERSONAL

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朝比奈隆に見る「古武士」の精神

「【正論】朝比奈隆に見る『古武士』の精神」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/150623/clm1506230001-n1.html

 11月20日に大阪で公演される、北原白秋作詩、信時潔作曲の交声曲「海道東征」については、度々触れてきたが、チケットは5月20日に一般発売となるや、即完売になったと聞く。やはり、日本人の精神は深いところで覚醒してきているのである。

 戦後70年間ほとんど封印されてきたこの名曲が、これを機に演奏される機会がどんどん増えていくことを期待している。とりあえず来年は横浜とか東京、そして東北、北海道と、この「海道東征」が文字通り「東征」していくことを強く望んでいる。日本人の精神において、「戦後レジームからの脱却」がなされていくことの芸術面での象徴だからである。


≪「森厳」と評した司馬遼太郎

 この大阪での演奏が、大阪フィルハーモニー交響楽団によるものであることも、うれしいことである。というのは、朝比奈隆が半世紀以上にわたって手塩にかけた楽団であり、平成13年に93歳で亡くなったこの大指揮者は、私が尊敬措(お)く能(あた)わざる巨匠だからである。

 朝比奈隆の演奏について、司馬遼太郎が「森厳」と評したことがあるが、実に的確な表現である。ある対談で、「きれいな演奏をしようと思ったことはないんです」と語ったことがあるが、その演奏はよく「硬派」とか「骨太」とかいわれる。ベートーヴェン交響曲第2番が鳴りだしたとき、なんて「武骨」な音だろうと驚いたことがある。

 90歳を過ぎた「明治人」が背筋をすっきりと伸ばして指揮台に立ち、時々譜面をのぞきこんだり、台にとりつけた欄干に何回か左手でつかまって身を反らせたりして指揮する姿は、歌舞伎の名役者の美しい演技を見ているように感動的であった。その音と姿は、まさに「森厳」という他なかった。

 明治41年生まれの朝比奈は、やはり「明治の精神」の骨格が強く感じられる人柄であるが、それがよく出ていると思われるエピソードがある。平成6年の秋、指揮者として初めて文化勲章を受章したときの祝賀会での発言である。


≪日本人の理想的な生き方≫

 その年86歳になる朝比奈は、そろそろ引退を考えないでもなかったが、親授式のあと、天皇陛下から「まだまだ頑張ってください」といわれたという。「したがって勅命により」もう少し現役を続けることにしたと語ったのである。無論、軽いユーモアをこめていわれたものであろうが、「勅命」という言葉がまだ生きている精神だからこそ、朝比奈の精神の背骨はまっすぐに立っていたのである。

 「愚直一筋」「力の限りを尽くし、悔いを残さず」といった言葉は、朝比奈が好み、実践したものであった。「行けるところまで行く山登りみたいなものでね。だから毎年、同じところをグルグル回るんでなく、少しでも上へ上へと、螺旋(らせん)を描いて行きたいですね」と語り、「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立て」という師メッテルの教えを忠実に守り抜いた。

 演奏が終わり、指揮台から降りて舞台をゆっくり歩いていく姿を眺めていて、ふと「古武士」という言葉を思い出したことがある。思うに、日本人の生き方の理想的な形式の一つ(恐らく、最高のもの)は、「古武士」に円熟していくことではあるまいか。


≪人間観における価値の復権≫

 「明治の精神」の一人、内村鑑三は、西洋文明化された日本人に激しい嫌悪を示し続けたが、晩年の日記に「毎日ラヂオに桃川如燕の義士伝を聞きつつある。まことに善き説教である。大抵の牧師の説教よりも遥かに有益又有力である。宣教師教会の会員たらずとも日本武士の一人たらんと欲する心が湧来る。自分は日本に武士ありし事、又少数なりとも今猶(な)おある事を神に感謝する」と書いた。鑑三がこのように書いてから70年余りたった日本において「古武士」朝比奈隆の演奏が聴けたことに対し、「日本に武士ありし事、又少数なりとも今猶おある事」に大きな喜びを感じたことであった。

 この朝比奈隆の「愚直一筋」とか「古武士」という形容は、そのまま信時潔にあてはまるものであった。今年は、信時潔没後50年であるが、山田耕筰も没後50年である。この宿命的なライバルは、くしくも同年に没したわけだが、「戦後民主主義」の風潮の下、「赤とんぼ」とか「からたちの花」の童謡の作曲家、山田耕筰の方が「海ゆかば」という近代日本における最深の、そして宿命的な音楽を生んだ信時潔よりも世間的には有名であった。

 今回の公演を機に始まるであろう信時潔ルネサンスは、作曲家、信時潔の再評価であるとともに人間観における「愚直一筋」「古武士」といった価値の復権でもある。そして、大阪の公演に対する関心の高さは、「日本に武士ありし事、又少数なりとも今猶おある事」を示すものであった。この今日の「少数」の日本人は、精神における「武士」である。そして、かかる「武士」たちが、陸続と出現すること、これが日本の希望なのである。(文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司)