柿の種
寅彦続き。
「棄てた一粒の柿の種 生えるも生えぬも 甘いも渋いも 畑の土のよしあし」。
『柿の種』から。
油画をかいてみる。
正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。
全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。
印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。
思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。
「三から五ひくといくつになる」と聞いてみると、小学一年生は「零になる」と答える。
中学生がそばで笑っている。
3-5=-2という「規約」の上に組み立てられた数学がすなわち代数学である。
しかし3-5=0という約束から出発した数学も可能かもしれない。
しかしそれは代数ではない。
物事は約束から始まる。
俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。
のみならず、それは立派な詩でもありうる。
しかし、それは、もう決して俳句ではない。
安政時代の土佐の高知での話である。
刃傷(にんじょう)事件に座して、親族立ち会いの上で詰め腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。
居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼(ろうおう)の口に注ぎ込んだ。
老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとなで回したために、顔じゅう一面にまっ黒い斑点ができた。
居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やはりそれを見て笑ったそうである。
平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。
すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張(しちょう)と上昇気流を利用するだけで上空を翔(か)けり歩く研究を始めた。
最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。
飛んだ距離は二里近くであった。
詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。
元素には今では原子番号数というものができて、何番の元素と言えばそれで事柄は完全に確定する。それだのに今でも科学者はやはり水素とか酸素とかテルリウムとかウラニウムとか、言わば一種の「源氏名(げんじな)」のようなものをつけて平気でそれを使っているのである。人間味をできるだけ脱却しよう、すべての記載をできるだけ数学的抽象的なものにしようという清教徒的科学者の捨てようとしてやはり捨て切れない煩悩(ぼんのう)の悲哀がこういうところにも認められるであろう。
科学といえども人間の産んだ愛児の中の愛児である。血の気を絞り取ってしまったら乾干(ひぼし)になって、孫を産む活力などは亡(な)くなってしまいはしないかという気がする。
それはとにかく、元素の名前に「桐壺(きりつぼ)」「箒木(ははきぎ)」などというのをつけてひとりで喜んでいる変わった男も若干はあってもおもしろいではないかと思うことがある。しかしもしそんなのがあったらさぞや大学教授たちに怒られることであろう。
ある若い男の話である、青函連絡船のデッキの上で、飛びかわす海猫の群れを見ていたら、その内の一羽が空中を飛行しながら片方の足でちょいちょいと頭の耳のへんを掻いていたというのである。どうも信じられない話だがといってみたが、とにかく掻いていたのだからしかたがないという。
この話をその後いろいろの人に話してみたが、大概の人はこれを聞いて快い微笑をもらすようである。
なぜだかわからない。
蝶や鳥の雄が非常に美しい色彩をしているのは雌の視覚を喜ばせてその注意をひくためだというような説は事実に合わないものだということがいろいろの方面から説明されているようである。自分の素人考えではこの現象はあるいはむしろ次のように解釈さるべきものではないかと思う。
周囲の環境と著しく違った色彩はその動物の敵となる動物の注意をひきやすく従ってそうした敵の襲撃を受けやすいわけである。そういう攻撃を受けた場合にその危険を免れるためには感覚と運動の異常な鋭敏さを必要とするであろう。それで最も目立つ色彩をしていながら無事に敵の襲撃を免れて生き遺ることのできるような優秀な個体のみが自然淘汰の篩(ふるい)にかけられて選(よ)り残され、そうしてその特徴をだんだんに発達させて来たものではないか。
戦争好きで、戦争に強い民族なぞの発生にいくらかこれに似た選択過程が関係しているのではないかという気がする。
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