NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

国旗に就いて

食いもののの恨みは忘れ、旗や歌の恨みだけおぼえているのは不自然だというより、うそである。

── 山本夏彦『何用あって月世界へ』


産経新聞、社説より。
「【主張】国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/150414/clm1504140003-n1.html

 国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。

 国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。

 先週9日の参院予算委員会で次世代の党の松沢成文氏が取り上げた。同氏の求めで文部科学省が各大学に聞き取り調査したところ、今年3月の卒業式で国立大86校のうち、国旗を掲揚したのは74校、国歌を斉唱したのは14校にとどまったという。

 これに対し安倍晋三首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している。

 下村博文文部科学相は記者会見で「適切な対応が取られるように学長が参加する会議で要請することを検討する」と述べた。文科相は「お願いであり、するかしないかは各大学の判断」とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ。

 大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。小学校の学習指導要領解説書にも書かれている。

 人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない。まして「大学の自治」を損なうものでもない。

 実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう。学長の判断で適切に行ってもらいたい。

 小中高校での国旗掲揚、国歌斉唱をめぐっては反対する教職員との板挟みで平成11年に広島県の高校校長が自殺する痛ましい事件が起きた。これをきっかけに国旗を日の丸、国歌を君が代と規定した国旗国歌法が制定された。

 国旗国歌に敬意を払う国際的な礼儀に背を向け「強制」と批判することこそ恥ずかしい。

 国歌の斉唱時にあえて起立せず式を混乱させる教員が相変わらずいる。自然に敬うことを妨げる動きがあるから東京都などで教職員に起立斉唱する職務命令が出されている。

 祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい。

福田恆存の国旗論。

 日本人には国旗といふ概念が戦前から余りはつきりしてゐなかつたのではないかと思はれる。戦争中の「不快」な連想を言ふ人があるが、山本夏彦氏に言はせると、あれは嘘だといふ。なぜなら、もし日の丸が戦争の「不快」を連想させるなら、玄米を搗(つ)いた“はたき”や一升瓶、防空演習のバケツ、西瓜の種や薩摩芋も同じ筈で、それを見ても、吾々が一向に「不快」を感じないのはをかしいではないかといふのである。
 成る程、一理屈である。戦争と国旗とは必ずしも条件反射関係にはない。あるとしても、今では寧ろ懐かしさを覚える位のものである。安保闘争の時、来日したハガティー氏の車の米国旗が地に落ちた時、或る私の友人はハッと息を呑んだといふ。もしそれを日本の学生が踏んだとしたら、それだけで国交断絶の充分な理由になるからだ。
 詰まり、国旗はその国家の象徴なのである。さういふ国旗の観念が日本人に無いのは、国旗に己の国歌の象徴を見るというふ近代国家の観念が日本人には無いからに他ならない。これは日本人が既に近代国家といふ古い観念を超越して、世界国家的観念を有するまでに成長してしまつたからか、それとも諸外国から遠く離れ三百年の鎖国の夢を過ごして来た為、未だ近代国家の観念を身に附けずにゐるからなのか、胸に手を当てゆつくり考えてみるべき事柄であらう。

── 福田恆存『きのふけふ』