NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

信じてる人、信じてない人

アレフ入信者、北海道内で急増 札幌に拠点、5年で200人増 35歳未満6割」(北海道新聞
 → http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0113213.html

 オウム真理教から改称した教団主流派「アレフ」の道内の信者数が急増し、今年2月現在でおよそ300人と、全国でも一大拠点となっていることが、公安調査庁の調査で分かった。地下鉄サリン事件から20日で20年。事件の記憶が遠ざかる中、教団は若年層を中心に勧誘し、信者数は事件前と同水準に戻りつつある。教団施設周辺の住民には不安の声も根強い。

 公安調査庁によると、アレフは12都道府県に24施設を持ち、札幌市にも道内唯一の「札幌施設」がある。2010~14年の道内の入信者数は年間で全国最多の35~75人で推移し、5年で200人も増えた。現在の信者数は、全国の信者約1450人の約2割を占めるという。一方、アレフから脱退した上祐史浩元幹部が代表を務める「ひかりの輪」は道内に拠点がない。

地下鉄サリン事件から20年 緊迫の現場(画像集)」(ハフィントンポスト)
 → http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/20/subway-sarin_n_6908588.html


天地創造を信じるのも宇宙人飛来説を信じるのも、進化論を信じるのも精神構造上何ら違いは無い。
宗教を信じるのも、科学を信じるのも“信じる”と言う行為は同じである。

水には波動があって何でも知っていたり、活性水素やアルカリイオン、高濃度酸素水がガンを治癒したり、特殊な微生物が農作物を巨大化したり、、、。
動物性(油だったりタンパク質だったり)よりも植物性が絶対的に優れていたり。
偏狭的な菜食主義や反牛乳主義。自然医療、似非医療。無農薬、低農薬、有機栽培絶対主義
という信仰。
疑うことの知らない無知による信仰も同罪である。

「宗教」ではない宗教性


 信じる人は困ったものだと皆が言っている。根は真面目で、しかも頭の良い人たちなのに、と。
 そういうふうに言うときの人々の口調に、何かずるいものを私は感じる。確かに彼らは頭が良いが、信じているから馬鹿なのだ。信じる人は馬鹿なのだ。知的な人間は信じないものだ、信じない自分のほうがだから彼らより知的なのだ、それで一段高みから彼らを論評する資格が自分にはあるのだといったような。
 これ、うそ。この両者、おんなじ。信じてる人も、信じてない人も、なぜ信じ、なぜ信じていないのかを、考えることなく信じてたり信じてなかったりするのだからまったくおんなじ、つまり考えなし。考えることなく信じている、これを信仰という。世のほとんどが無宗教信者。
 人が何がしかの宗教的なものに関わるのは、救われたいからだ縋(すが)りたいからだと思うのは、もうやめにしてもいいのではないか、信じてる人も信じてない人も、ちょうど、きりよく二千年たつことだし。
  信じてる人、聞いてください。
 あなたが信じたのは、自分の孤独に不安を覚えたからだった。ところで、信じたところで、あなたがあなたでなくなりますか、宇宙が宇宙でなくなりますか。いや、信じることによって自分と宇宙は一体化できるのだというのなら、宇宙自身の孤独はどうなるのですか。宇宙は自分が自分であって自分以外ではないという孤独を、何によって癒せばよいのでしょう。そのときあなたの孤独は、じつは宇宙大に拡大しただけの話ではないでしょうか。つまることろ、「あなた」とは誰ですか。あなたはそれについて、信じるのではなく考えたことがありますか。また、考えるために大勢でまとまる必要が、なぜあるのでしょうか。
  信じてない人、聞いてください。
 あなたが信じていないのは、自分は自分であり宇宙とは別物であると信じているからだった。ところで、そう信じられるためには、あなたは「自分」という言い方で何を指示しているのかを、明確にできなければならない。それはあなたの肉体を指しますか。それとも心ですか。では心はどこにありますか。心なんてものはない。それは脳のことを指すのだというのなら、では、脳を作ったのはあなたですか。あなたの脳を作ったのは、ほかでもない、宇宙ではないのですか。ではなぜ、宇宙と自分とを別々にして考えられましょうか。人が宗教的なものに考え至らざるを得ないのは、実は救済以前の問題なのだと、このとき気づきはしませんか。
 私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをずうーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである、気持ちは、わかるけど、オウムの事件は、たぶん、トドメの悪夢なのだ。
 新しき宗教性は、だから、今や「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは「宗 - 教」ではない。教祖も教団も教理も要らない、それは信仰ではない。それは、最初から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。だからそのあらたなる名称は、
  垂直的孤独性、とか
  凝縮的透明性、とか
 そんなふうな響きをもった、何を隠そうその名は、「哲学」なのである。

── 池田晶子『残酷人生論―あるいは新世紀オラクル』