NAKAMOTO PERSONAL

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道徳心高める教育を推進すべし

「【正論】道徳心高める教育を推進すべし 立命館大学フェロー・加地伸行」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/141229/clm1412290001-n1.html

 今年も静かに暮れてゆく。騒がしい地球において、日本は動乱状態に陥らず、日々安定して食べてゆくことができているのは、大きな幸福である。

 太古以来、この〈食べてゆける〉ことが大課題であるが、その水準に日本は達している。しかし人間は〈物の生活〉が足りておれば、それでいいのであろうか。


 ≪問われるべき「心の問題」≫

 物の生活と同時に〈心の生活〉がある。これを満たしてこそ真の幸福である。心はもちろん人間のあり方である。その眼で1年を顧みると異常な出来事が次々と浮かんでくる。虚偽-小保方実験や佐村河内作曲、虚言-吉田清治詐話宣伝の朝日新聞、虚妄-中韓の日本領土侵略の主張…。

 さらに子への虐待、子殺し親殺し、学校の友人へのいじめや殺害といったおぞましい事件の数々。

 それらには、表れた結果から動く治安の問題すなわち法の問題である以前、まずは、その動機にからむ心の問題すなわち道徳の問題を問うべきではなかろうか。

 道徳-これは人間が作り出した大いなる知恵である。それは、どういう意味か。

 人間は生物であるから、根本には利己主義がある。それは生物としては正しい。しかし、人間は多くの社会を作る。初めは血縁という生物的立場で家族・部族社会を作る。次第に血縁外者と地域社会を作り、最終的には国家を作る。

 そうなると、利己主義という、個体の本能的あり方を超えた社会性、その社会を維持するあり方が必要となる。あえて言えば、利己主義を抑止するものが必要となる。そこで生まれた抑止力が道徳と法との2つなのである。道徳は知恵として、法は道具として。

 すなわち、人間が社会生活を送る上において最も重要なものであったからこそ、古来、道徳や法が教育の根本となったのである。

 もっとも利己主義者は、道徳も法も学習する必要がない。利己主義者としては、自分にとって損にならない範囲においてのみ道徳・法は有用というだけのこと。

 それは、逆に言えば、道徳・法を教えることによって利己主義を抑止することができる。だからこそ道徳・法の教育が必要なのである。これはだれも否定できない。


 ≪硬直した思いこみの感情論≫

 その教育の場として家庭や学校がある。家庭の場合、個々の家庭の諸事情があり個別性が強いので、しばらく措(お)くが、学校においては、その社会性から言って、当然、道徳教育を行うべきである。

 聞けば、平成30年度から小中学校において道徳が教科として登場するとのこと。それは当然どころか遅いくらいだ。

 ところが反対論がある。その理由は「教科にすることで、国が一定の価値観を押しつけ、自由かつ多様な価値観が育つのか。思想信条を統制することになる」などであり、相変わらず朝日・毎日などの左筋マスコミが反対している。

 もちろん反対は自由である。しかし、その反対論は〈道徳教育は一定の価値観の押しつけ〉という硬直した思いこみの感情論であり、道徳とは何かと考えたことがないことを露呈している。

 道徳は、絶対的道徳と相対的道徳とに二大別できる。

 絶対的道徳とは、古今東西において共通する道徳である。人を殺すなかれ、他人の財物を盗んだり焼亡することなかれ…といった、社会秩序の鉄則である。それは公徳であり、きちんと教えなくてはならない。これを否定するのか。


 ≪生涯にわたって続く「修養」≫

 相対的道徳とは、それを実行するには自己が判断し決定する種類のものである。これは、古くから道徳教育の大きなテーマとして存在する。今日では、ディスカッションの形で学ぶことが多い。一般にはモラルジレンマ(生きかたにおける苦渋の決断)と言う。例えば、海上に3人が乗っている1隻の舟があるとする。しかし、その舟の能力では1人しか乗れない。

 では3人はどうするか。これが問題でさまざまな意見を出させ討論させる。正解はないが、議論して道徳の実践における選択と自己の決断という生き方を学ぶ訓練となり、それが道徳心を高める。

 さらに個人においては〈修養〉という、己の生き方を鍛えるあり方がある。しかし、小中学生が自分一人で修養を積むのはなかなか難しい。そこで例えば偉人の伝記や人々のエピソードを知ることによって啓発される可能性が高い。こうした修養は、私徳であり、生涯にわたって続くこととなり、その人の人生を左右する。そのための種まきが道徳教育なのである。そのどこがいけないのか。

 「少年よ大志を抱け」-たったこの一言が、実は重い道徳教育になっているのである。

 日本の教育の不幸は、政府の行うことを、左筋の者が常に悪く悪く解釈し悪宣伝をするところにある。モラルジレンマの訓練・討論など知らないで悪口雑言だけ。彼らにこそ道徳教育が必要だ。

 文部科学省よ、自信をもって道徳教育を推進すべし。それは明日を担う少年少女のためである。

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)


 我等は人生の大抵の問題は武士道を以て解決する、正直なる事、高潔なる事、寛大なる事、約束を守る事、借金せざる事、逃げる敵を遂わざる事、人の窮境に陥るを見て喜ばざる事、是等の事に就て基督教を煩わすの必要はない、我等は祖先伝来の武士道に依り是等の問題を解決して誤らないのである。

── 内村鑑三(『武士道と基督教』)