NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

女に参政権はいらない。勿論、男にも。


仕事帰りに期日前投票


言うまでもなく、参政権は国民の権利である。

しかし、むやみやたらと投票率を上げようとする、投票しないことを悪く言うような風潮は如何なものか。
権利の強要である。


投票は国民の意思表示である。しかしその表示すべき意志が無ければ投票は意味を為さない。
むしろ意志の無い投票は害悪でさえある。
どこに入れたら良いのか、誰に入れたら良いのか、明確な意思のない投票ならばしない方が良いに決まってる。
適当な、無自覚な投票が国家の行く末を左右するのである。


女に参政権はいらない。

勿論、男にも。


と喝破したのは山本夏彦翁である。

 女に参政権はいらないと言えば、さぞかしお怒りだろうが待ってくれ、男にもいらない。制限選挙でたくさんだ。
 ガリバー旅行記スイフトは、女は男をたぶらかすのが仕事だといえば語弊があるなら、魅してとりこにするのが仕事で、ほかの事など念頭にない。フランス婦人も第二次大戦後選挙権を貰ってくれと言われたのに断った。まあそう仰有らずにと再三言われてしぶしぶ貰った。
 お忘れだろうが昔は直接国税十五円納めなければ選挙権はなかった。制限選挙である。税と関係なく選挙権は万人にあるべきだと大正デモクラシーは執拗に主張して、大正十四年ようやく普通選挙は通った。ただし男だけで女のことはきれいに忘れていた。文句を言う女は市川房枝くらいで、あれは女の仲間ではないと、ほかでもない女が思ってた。
 制限選挙なら選挙民は三十万人だったのに普選になったら千二百五十万人にふえた(大正十四年)。その結果どうなったか。選挙民が二倍になれば饗宴、買収、選挙の腐敗は二倍はおろか五倍十倍になる。女の選挙権はアメリカの占領軍がくれたのである。棚からぼた餅で、女はもらい物が大好きである。
 女は投票したか否かを問うて票の中身を問わない。小学生の昔から棄権は罪のように教えられたからだ。朝日新聞は進歩的ふりをして「日教組」を手なずけた。その甲斐あってまにうけて進歩的になった生徒に今度は社説を読ませ、「天声人語」を写させた。
 高校生には大学の入試問題は朝日から出るぞと言いふらした。投票すれば社会党に一票を投ずるにきまっていると思うのはフシギだが、選挙は人を盲目にする。投票さえしてくれればわが党にと思って子供たちに吹きこんだのである。それが習い性となったのが世の妻君連である。亭主が推す候補者に同じく一票を投ずれば二倍になるだけである。進歩的婦人は亭主には従わなくても組合の推す候補に投票すれば、これまた二倍になるだけである。人数が二倍になればこのていたらくだとはすでに述べた。
 制限選挙で投票者がかりに五百万に減ればそれは人類の縮図である。悪玉もいれば善玉もいる、人殺しもいれば偽善者も稀に君子人もいる。もし貧乏人代表がいないと言うならどしどしいれるがいい。制限選挙でたくさんである。

── 山本夏彦(『死ぬの大好き』)

死ぬの大好き

死ぬの大好き


福田恆存も言う。

 選挙のたびによく言はれることだが、なぜ棄権してはいけないのか。棄権してもよいといふことになれば、政治に不熱心な、あるいは政治の解らない市民は気楽に棄権するだらう。さうなれば、政治に熱心な、あるいは政治の解つてゐる市民は相対的に二票分の権利を得たことになるではないか。医師にもふぐの板前にも資格試験がある。自動車の運転にも免許状が要る。主権在民のその主権者が無条件免許とは、そして誰もそれを疑はないのは、考へてみれば不思議な話である。封建時代の君主の方が、むしろ自分を脅かす内外の競争者を前にして、おのづとその資格と実力とを絶えず問はれてゐたやうに思はれる。

── 福田恆存(民主主義を疑ふ『日本への遺言』)

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

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