NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「読書週間」

「【産経抄】読書の秋 11月2日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/141102/clm1411020003-n1.html

 明治から昭和にかけて筆をふるった泉鏡花は、字の書かれたものなら新聞の切れ端でさえ下に置かなかったという。同じ文筆業の端くれとして、わが身を省みると入り用の書物は机に散乱、仕入れた知識は右から左。「明窓浄机」にほど遠い日々を自戒する。

 近ごろは新聞、雑誌が通勤電車の網棚に置き捨てられた風景すら、とんと見ない。新聞も本もゲームもスマートフォン1台の中に収まる時代になった。分厚い字引を枕に、昭和の受験戦争をくぐり抜けた身としては隔世の感、いや、アナログ世代の哀愁を覚える。

 9日まで続く「読書週間」にあって、こんなデータもある。文化庁の調査ではおよそ2人に1人が「1カ月に本を1冊も読まない」と答えたそうだ。スマホやパソコン、ゲーム機などデジタル時代のライバルに押され、ページを繰る手が止まってしまうのは惜しい。

 先人の言葉を借りるなら、「今夜新たに読む本は未知の世界の旅ぞかし」(与謝野晶子)。手当たりしだいに種をまくように、書をひもとけと勧めたのは寺田寅彦。「地味に適応したものが栄えて花実を結ぶであろう」。自分に適した一冊は渉猟の中で得られる、と。

 それとは逆に、三島由紀夫は文学作品の中を散歩すべし、と説いた。駆け足なら、より多い紙数を読める。しかし「歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られる」と。座右の一冊に出会える喜びを思えば、足を棒にする価値はある。

 「出版不況」といわれながら毎年、おびただしい数の書籍が世に出ている。「寺田式」に本を手に取り、相性がよければ「三島式」のデートへと階段を上るのもありか。本の樹海を前に、まずは遊歩術を心得よう。秋の夜は長い。


公益社団法人 読書推進運動協議会』 http://www.dokusyo.or.jp/


“忘れた頃にやって来る”、寺田寅彦

 それにしても日々に増して行く書籍の将来はどうなるであろうか。毎日の新聞広告だけから推算しても一年間に現われる書物の数は数千あるいは万をもって数えるであろう。そうしてその増加率は年とともに増すとすれば遠からず地殻ちかくは書物の荷重に堪えかねて破壊し、大地震を起こして復讐ふくしゅうを企てるかもしれない。そういう際にはセリュローズばかりでできた書籍は哀れな末路を遂げて、かえって石に刻した楔形文字くさびがたもじが生き残るかもしれない。そうでなくとも、また暴虐な征服者の一炬いっきょによって灰にならなくとも、自然の誤りなき化学作用はいつかは確実に現在の書物のセリュローズをぼろぼろに分解してしまうであろう。
 十年来むし込んでおいた和本を取り出してみたら全部が虫のコロニーとなって無数のトンネルが三次元的に貫通していた。はたき集めた虫を庭へほうり出すとすずめが来て食ってしまった。書物を読んで利口になるものなら、このすずめもさだめて利口なすずめになったことであろう。

── 寺田寅彦(『読書の昨今』)

寺田寅彦随筆集 (第3巻) (岩波文庫)

寺田寅彦随筆集 (第3巻) (岩波文庫)