NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

神様を信じていなくてもいい。

「神様を信じていなくてもいい。世界の宗教から学べる7つの大切な教訓」(lifehacker)
 → http://www.lifehacker.jp/2014/08/140825religion_lesson.html

無神論者、篤信家、不可知論者、どんな立場の人であれ、世界の宗教から学べる叡智があります。今回は、数々の聖典の中から、最も重要で万人に役立つ教えをご紹介します。
私は神学者ではありませんが、20年以上、比較宗教学に関心を持ってきました。フィリップ・ノヴァクの「The World's Wisdom」や、スティーブン・ミッチェルの「The Enlightened Mind」など、世界宗教の歴史に関する本をたくさん読んできました。私が最も興味を惹かれたのは、世界宗教に共通するテーマです。共同体の物語、他者を尊重する物語、人生の目的を見つける物語などのことです。
宗教によって信じるものは異なります(死後の世界、神性の捉え方、宗教上の儀式など)。とはいえ、古くから伝わる聖典の中には、大切な人生の教訓がたくさん詰まっています。ここでは、キリスト教イスラム教ヒンドゥー教、仏教の書物から、特に目を引かれた教訓を紹介します(宗教人口の多さからこの4つを選びましたが、ユダヤ教シク教からもピックアップしています)


1. 黄金律
多くの宗教に共通する普遍の真理、教えがあるとしたら、それはきっと「黄金律」でしょう。黄金律とは、「自分がしてもらいたいと思うことを他者にもせよ」という内容の教えです。TeachingValues.comが指摘するように、こうした教えは、キリスト教儒教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教ユダヤ教道教ゾロアスター教などで共通して見られます。
例えば、ユダヤ教聖典タルムードでは:

あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。これが律法の全体であり、他の全てはその注釈である。

ヒンドゥー教のマハーバラータでは:

これが義務のすべてだ。人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも、他人にしてはいけない。

イスラム教スンニ派の教えでは:

自らに望むことを仲間に望まぬ者は真の信者ではない。

一般社会では、これは共感と呼ばれているものです。共感は、仕事や交友関係において、最重要のスキルです。それは、他者の感情を理解することであり、さらに重要なのは、自分がしてほしいように他者を扱うことです。


2. 他者の幸福のために働くこと、特に貧しい人や不幸な人のために
この教えも黄金律と似ていますが、特に、自分より貧しい人や不幸な人に目を向けるよう説いています。数々の研究によると、最も成功した人たちとは「もらうよりも与える人」なのだそうです。多くの宗教はこのような無私と奉仕の考えを提唱しています。
例えば、ブッダが残した最後の教えは「他者の幸福のために働け」でした。

自らの道を歩め、修行僧たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への慈しみをもって、神々と人々の利益と幸福のために。

聖書も不幸な人への思いやりを説いています。

もしあなたの兄弟で貧しい人ひとりでもいるなら、その兄弟たちに向かって心をかたくなにしてはならない。また、手を閉ざしてはならない。彼の人に向かって手を開き、必要とするものを貸し与えなさい。この国で貧しい人がいなくなることはない。だから私は命ずる。貧しい者に手を開けと。

アルバート・アインシュタインは、ユダヤ教は宗教ではない、すべての命の美しさを祝福する伝統であると主張しています。

ユダヤ教は私にとって、人生に対する道徳的態度を教えるものだ。(中略)人生に対するユダヤ教の教えの本質は、生きとし生けるものの命を肯定することだと思う。(中略) しかし、ユダヤ教の伝統の中にはそれだけではない何かがある。それは、詩篇の中で光を放っている。いうなれば、この世界の美しさと不可解な崇高さに対する、陶酔的な喜びと驚きのようなものだ。それは、手を触れるとはかなく消えるほのかな暗示のようなもの。真の研究者は、その感覚から強力な知性を立ち上げる。しかし、それはまた、鳥たちがくちずさむ歌の中にも現れているように見える。

不幸な人を思いやることは、シク教の根本教義のひとつでもある、とCNNが報じています:

「(創始者である)グル・ナーナクは、神に会いたければ、貧しい人々に仕えなさいと語った」とジョハー氏は話しています。

世界中にあるグルドワラ(シク教徒のお寺)は様々なかたちで病院、学校、宿泊施設、コミュニティーセンターの機能を果たしています。シク教徒によると、これは、この宗教が奉仕と平等を重視している証拠なのだそうです。

Zeeshan Rasool氏が教えてくれたのですが、イスラム教の預言者は、他者の導き手となることの重要性も説いています。

自らを押しつぶす手にさえ、その香りを与える花のようであれ。

イマーム アリー・イブン


3. 今にフォーカスする
死後の世界と同じくらい、宗教は「今」を大切にせよと説いています。
仏教はマインドフルネスに重点を置いています。瞑想が最も顕著な例です。また、他の宗教も今という瞬間を味わい、意識を研ぎ澄ますよう説いています。
神学の学生だったTyler Lear氏によると、ヒンドゥー教では、人生には段階があり、その時々で優先事項が違うと説いているそうです。

ヴェーダヒンドゥー教には、4つの人生段階があります。学生期、家住期、林住期、遊行期 (中略) この4段階は、必ずしも1回の人生で全うされるとは限りません。1つの段階を何度もの人生を通して達成する人もいます。

その段階にふさわしい行為をしているとき(例えば、家住期は懸命に働いてお金を稼ぎ、家族を養う。遊行期は他者との関わりを断ち、祈りと瞑想の日々を送る)、その人は宇宙の秩序に奉仕していることになります。言い換えれば、人はそれぞれの人生段階にふさわしい行為をすることで、宇宙を共に支えているのです。

結論:誰もが人生の異なる段階にいます。すなわち、それぞれで優先事項が違います。そして、それは良いことです。

ヒンドゥー教のシュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッドは、「ヨガをするための静かな場所を見つけること」を勧めています。

ヨガをするための静かな場所を見つけなさい。風から守られ、平らで清潔、ごみがなく、火の気がなく、見苦しくない場所を。水の音と風景の美しさが、思索と観想を助けてくれる場所を。

イエスは従者たちにこう言いました。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分だ。

言い換えれば、明日を憂うことは無益な時間の浪費なのです。人が死の床で本当に後悔することがあるとしたら、自分の気持ちを表現しなかったこと、仕事のために家族との時間を犠牲にしたことだけでしょう。


4. お金ではなく、何を達成するか
お金があるほど幸福、とは限りません。ほとんどの宗教が、幸福になりたければ、物質的な物を追い求めるのをやめろと説いています。キリスト教、シスラム教、仏教、ユダヤ教もそうです。
イマームアリー・イブン・アビー・ターリブはこう言っています。

この世界は、あなたの影のようなものだ。あなたが立ち止まれば、世界も立ち止まる。追いかければ、逃げていく。

お金はまた、大局を見る目を曇らせます。イエスは言います。

お金持ちが神の王国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうがずっとやさしい。

物質的所有をすべて諦めろという意味ではありません。仏教は借金がないこと、キャリアパスを見つけることの喜びを説いています。もちろん、人を最も幸福にするのは、計算機で数えられる物でないのは言うまでもありません。


5. コミュニティに関わる
宗教を実践すると、自分の殻から出て他者と関わらざるをえなくなります。これは良いことです。なぜなら、宗教的信念を共有しているかにかかわらず、私たちはみな相互に依存しており、たったひとりで生きているわけではないからです。
ユダヤ教のラビ、タイラー・リア(Tyler Lear)氏は、コミュニティこそがユダヤ教の核心だと説いています。

ユダヤ人になる道はたくさんあります。無神論者のユダヤ人もいます。しかし、結局は人の集まりなのです。共通の歴史を持ち、(多くの点で)同じ文化を共有する人々の。

(これは、ユダヤ教に改宗するときの最大の障壁ともなります。改宗する人は、もともとユダヤ人のコミュニティーに属していません。つまり、ユダヤ人との共通の基盤を持たない人々です。このことがコミュニティーへの参加を難しくします)

つまり、人生とは、あなたが共に過ごす人々のことであり、彼らへの共同体意識のことです。それは、ほかの何よりも大切なものです。

ほかの宗教も同じことを説いています。例えば、イスラム教では、1日5回の礼拝を通して、教徒たちは共に時を過ごします。カトリック教会のミサでは、参列者が握手をしながら「peace be with you(平和があなたとともにありますように)」と挨拶を交わします。それは、こんな意味になります。私はあなたに平和を与えます、あなたは私に平和を与えます、少なくともこの瞬間は、すべてがうまくいっています。
コミュニティーの積極的な参加者になることは、多くの人にとって自然なことではないかもしれません。しかし、宗教は、少なくとも、私たちがひとりではないことを思い出させてくれます。


6. 自らの行為に責任を持つ
「自分の行いは自分に返ってくる」多くの宗教がこのカルマの教えを説いています。
カルマヨーガはヒンドゥー教バガヴァッド・ギーターの根本にある教えです。これは、行為そのものというより、行為の裏にある意識の質を問題としています。見返りを期待せず、行為のために行為することが大切なのです。

見返りを期待して行為をすると、その者は行為のパターンに捕らえられ、再びこの世に生まれる運命になる。そうではなく、真摯に行為し、結果を期待しないとき、すべての行為は神への奉仕となる。神だけが真の行為者であることを理解するとき、人は解放への道を歩む。

仏教の根本教義「八正道」は、次のように説いています。

生きとし生けるものは、行為(カルマ)の所有者であり、行為の相続人である。その者の行為は、その者が生まれ出る子宮だ...。いかなる行為も(善行であれ悪行であれ)行為者本人がその相続人となる。

GotQuestions.orgはカルマをキリスト教徒向けに翻訳しました。基本的には、自分が蒔いた種を刈り取るということです。

聖書には、蒔いた種を刈り取ることについての説話がたくさんあります。ヨブ記4:8「わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪を蒔く者は、それを刈り取っている」 詩篇126:5「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」 これ以外にも、種蒔きと刈り取りについて語っているものはすべて、自分が受け取る結果は、自分が成した行為に負っていることを説いています。また、現世で蒔いた種は、死後の世界で受け取る褒美と罰にも影響します。


7. 自分を知る(自分で決断する)
多くの人が、宗教を洗脳のようなものだと考えています。しかし、世界の主な宗教が説いているのは、自分を見つめ、自分で決断せよということです。それはおそらく、自分の中にスピリチュアルなコアを見つけろということでしょう。
私のお気に入りの禅の物語はこうです。

ひとりの僧が師に問うていわく、「仏とな何者か?」

師、答えていわく、「棒についた乾いた糞だ」

もうひとつ:

仏に会ったら仏を殺せ。

宗教は厳格な修行体系を持っていますが、同時に、自己反省を強く奨励しています。

神学者ジャン・カルヴァンの「キリスト教綱要」では:

われわれの知恵で、真理にかない、また堅実な知恵とみなされるべきもののほとんどすべては、二つの部分からなりたっている。神を認識することと、われわれ自身を認識することとである。(キリスト教綱要 1.1.1)

カルヴァンは、自分自身を知らずして、神を真に知ることはできず、神を知らずして自分を真に知ることはできない、と言っています。カルヴァンはこれに関するジレンマにも言及しています。「どちらが先に来るのかを知るのは難しい」
イマーム アリー・イブン・アビー・ターリブは次のように語りました。

よく考え、よく内省する者は、高い先見性と洞察力を得るだろう。

最後に。好奇心を失わず、問い続けること。そして、年長者の智恵には耳を傾けることです。

「やってみる」ではない。やるかやらないかだ。

─ マスター・ヨーダ


日本には武士道がある。
武士道は神様を煩わす必要はない。

 我等は人生の大抵の問題は武士道を以て解決する、正直なる事、高潔なる事、寛大なる事、約束を守る事、借金せざる事、逃げる敵を遂わざる事、人の窮境に陥るを見て喜ばざる事、是等の事に就て基督(キリスト)教を煩わすの必要はない、我等は祖先伝来の武士道に依り是等の問題を解決して誤らないのである。

── 内村鑑三(『武士道と基督教』)