NAKAMOTO PERSONAL

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“集団的自衛権”発動!(猫のタラ)

「『飼い主を守る猫』でも行使する『集団的自衛権』に反対するマスコミの国際感覚の欠如」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39296


安倍晋三首相は、15日に有識者懇談会(安保法制懇)から提出される報告書を踏まえて、会見を行い、政府としての検討の進め方の基本的方向性を示した。

ちょうど同じ日に、米CNNで「猫が猛犬に体当たり、飼い主の子ども救う」という面白いニュースが流れ、日本のテレビでも放映された。


You Tubeに投稿され、2000万回近く見られた「My Cat Saved My Son」がネタもとであるが、1分弱なのでまずはご覧いただきたい。幼い男の子を襲った犬に飼い猫が体当たりして撃退し、男の子を救ったのだ。

筆者にとって、安倍首相の会見と米CNNニュースは「同じ話」にみえたのだが、その後マスコミでの集団的自衛権の行使の是非を報じたマスコミは、両者の関連に気づかなかったようだ。

本コラムで書くことは、筆者が1998~2001年にかけて米プリンストン大学で学んだ国際法の観点からの見方だ。プリンストン大は、筆者がいたときには民主党クリントン大統領が講演に来るなど、米国ではリベラルな大学である。

なお、筆者は、プリンストン大にいたバーナンキ・前FRB議長の著作を翻訳したり、ノーベル賞受賞者クルーグマンプリンストン大教授の私的な言動を紹介したりするので、経済学の研究で留学したといわれるが、主に勉強したのは国際法、国際関係論である。

国際政治の理論として民主主義国同士では戦争をしないという「民主的平和論」があるが、その構築に大きな貢献をしたマイケル・ドイル・プリンストン大教授(現コロンビア大教授)が所長をしていたプリンストン大国際研究センターに、筆者は所属していた。


自衛権は「正当防衛」であり、集団・個別に分けられない

欧米において「自衛権」は、刑法にある「正当防衛」との類推(アナロジー)で語られている。これがポイントだ。

まず、日本の刑法で正当防衛を定めた第36条では、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」(第1項)とされ、「他人の権利を防衛する」がある。自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」にあっていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。

少なくとも建前としてはそうだ。もちろん、実際の場合には、「他人」と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうかなどで、助けられる場合も、助けられない場合もあるが。

国際社会では、「自己」「他人」を「自国」「他国」と言い換えて、自衛が語られる。ちなみに、英語でいえば、自衛も正当防衛もまったく同じ言葉(self-defense)である。自国のための自衛を個別的自衛権、他国のための自衛を集団的自衛権という。両者は一体になって自衛なので、個別的、集団的と分けることは国際社会ではない。

これでおわかりだろう。米CNNニュースにおける猫は、自分ではなく男の子に攻撃した犬に対して攻撃したので、「正当防衛」をしたわけだ。つまり、猫は「集団的自衛権」を行使したのだ。

もちろん「正当防衛」では過剰防衛は認められないのと同じように、国際法のなかでは「自衛権」の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。その条件も「正当防衛」と「自衛権」ではパラレルで、「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむを得ないといえるために、「必要性」と同時に、限度内のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃すなわち過剰防衛になってはいけない。

さらに、「集団的自衛権」では、他国の「要請」があることが条件となる。「正当防衛」では、民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも「集団的自衛権」では最低必要限度にしなければならない。

こうした観点から、安倍首相会見をみてみよう。二つのパネルを用いて、今のままでは実行できないとした。

一つは、紛争国から逃げる日本人を乗り込む米艦を日本は守れないとするパネルだ。これに対して、集団的自衛権の行使に反対するマスコミは、米艦が日本人を救出することはありえないとかのトンチンカンな反応の後、リアリティがないとか、この件は集団的自衛権ではなく、個別的自衛権で対応できると批判している。

他国は米国に限らない。実際、イラン・イラク戦争のとき、イランに取り残された日本人200人超はトルコ政府が手配した航空機で脱出したので、現実の話だ。

集団的自衛権の行使に反対する人が、苦しくなると持ち出すロジックは、「集団的自衛権ではなく、個別的自衛権で対応できる」だ。一見もっともらしいが、国際社会では通じない。

というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行う行為を、「自己」の権利侵害とみなすと、定義するからだ。つまり、他国への攻撃を自国への攻撃とみなして行うことを集団的自衛権と定義するのであるから、個別的自衛権のみなしと英訳すれば、集団的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。

個別的自衛権集団的自衛権は、全く別のモノと思い込んでいるので、こんな間抜けな話になってしまう。「正当防衛」で「自己又は他人」と一緒に規定されていることを思い出せば、こうした間違いは起こさないですむはずだ。

自国への攻撃とみなして他国の艦を守るといいながら、集団的自衛権を行使しないというと、国際社会では矛盾したことを平気で言う人となってしまうことをもっと真剣に考えるべきだ。こうしたことを主張する某政党の関係者には、自国への攻撃とみなして他国の艦を守る、でとどめておくべきと進言している。


「巻き込まれ論」はエゴの塊

二つ目のパネルは、NGOの日本人ボランティアや他国の国連平和維持活動(PKO)の要員が、現地の武装集団に攻撃されても、PKOで派遣された自衛隊が警護できない、いわゆる駆けつけ警護問題だ。

これに対して、自衛隊が戦闘行為に巻き込まれると、反対論のマスコミは批判する。

これは、「自己又は自己と共に現場に所在する他の隊員若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体を防衛するためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で」武器使用はできる(PKO協力法第24条)という制限があるからだ。この制限は、つまるところ「武力の行使」の憲法上の制約からでてくる。

これは、現地一般人の「正当防衛」より狭いので、全く非常識ものだ。冒頭のCNNニュースの猫でも「集団的自衛権」があるのに。

猫が「集団的自衛権」を行使したのは、普段は飼い主がエサを与え、犬などの外敵から守ってくれるからだ。飼い主で男の子の母親は、猫が犬に体当たりしてくれなければ、もっと大けがになっていたといっていた。こうして、飼い主とその家族と猫は、お互い様で、それぞれの外敵からの危険は少なくなるだろう。

日本でいわれる「巻き込まれ論」は、自国だけ守ってくれというエゴの塊である。しかも、戦後の日本政府は、このエゴを海外に示し続けていたと思うと、憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。

また、前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛権のみを主張するのは、この理念からも反している。

それと、地球の裏側まで行くのかという議論もあるが、極論である。「正当防衛」論から見れば、「緊迫性」「必要性」「相当性」が求められているので、地球の裏側というのは、そうした要件に該当するものとはなりにくいので、極論といえるわけだ。猫も、犬に体当たりしただけで、犬が逃げるのを追いかけて攻撃していない。


従来の?誤った?解釈は世界ではあり得ない

以上を理解した上でも、集団的自衛権の行使は、憲法解釈ではなく憲法改正で行うべきという批判もある。この前提として、日本は世界に冠たる憲法9条があるので、それに反することは改正によって行うべきということだろう。

集団的自衛権を行使できないというのは、?誤った?憲法解釈であり、それをただすのは解釈の修正である、というのが筆者の答えだ。

なぜ、そうした?誤った?憲法解釈がこれまで続いてきたのかといえば、大きな要因として米国の日本封じ込めがある。米国は日本の再軍備を戦後長い間懸念していたので、集団的自衛権を行使できないという国際的な非常識を暗黙のうちに日本に押しつけてきたのだろう。

いずれにしても、集団的自衛権を行使できないというのは、世界ではあり得ないことを示そう。日本の憲法9条戦争放棄は、1928年の「戦争放棄に関する条約」から来ている。この条約は、戦後の世界各国での憲法規定に影響を与えており、かならずしも日本だけが戦争否定をしているわけでない。

日本国憲法9条に相当する条文は、韓国、フィリピン、ドイツ、イタリアの憲法に盛り込まれている(右表)。

それらのいずれの国も、似たような安全保障条約を結んでいるが、集団的自衛権を行使できないという議論は全くありえない。したがって、日本だけが集団的自衛権を行使できないというは、?誤っている?と言わざるを得ない。

安全保障については、日本国内で国内事情による解釈経緯論だけで考えると、国の方向を間違ってしまうので、国際関係の中で国際法の下で議論すべきだ。

安倍首相の会見を、こうした国際的な観点からみれば、多国籍軍への参加はしないなどかなり抑制されたものとなっており、その点は多少気がかりであるが、少なくても、従来の?誤った?憲法解釈からの第一歩にはなるだろう。


ホムサ曰く、

(いいひとだけど、ほかのひとのことを、てんで気にもとめないような友だちは、ぼくは、いらない。自分で自分がいやにならないようにするためにいいひとでいるような友だちも、いらない。こわがりの友だちも、いらない。けっしてこわがらなくて、思いやり深いひとが、いい。)

── ホムサトフト(『ムーミン谷の名言集』