NAKAMOTO PERSONAL

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一日一言「世人みな試験官」

三月十二十六日 世人みな試験官


 試験と言えば定期的に行われるものだけだと思いがちだが、試験はいつでもどこでも行われている。一日の言動は、みな試験と同じで、点数をつけるものは、世間のすべての人の目と耳である。世の中の人はみな試験官と思え。


  世の人は皆ことごとく試験官
      われただ一人受験者の身ぞ

── 新渡戸稲造(『一日一言』)



1945年〈昭和20年〉3月26日 栗林忠道 没


「硫黄島に散った指揮官・栗林忠道」(NetIB-NEWS)
 → http://www.data-max.co.jp/2014/03/24/post_16456_hmg_01.html

 昭和20年3月26日、硫黄島の指揮官・栗林忠道中将は生き残った400名余の残存兵の先頭に立ち、最後の総攻撃を敢行した。日本本土への空襲が激化するなか、硫黄島では栗林以下多くの先人たちが命を賭して国土を防衛したことを、私たち日本人は絶対に忘れてはならない。(拓殖大学客員教授 濱口 和久)


<米軍が認める指揮官>
 栗林忠道ほど日本陸軍のなかで、知略と勇猛果敢さを遺憾なく発揮した指揮官は日本の戦史上例をみないだろう。

 米軍は5日間で硫黄島(東京都港区と同じ約20平方キロメートルの広さ)を制圧する予定であった。ところが約1カ月間、栗林が指揮する日本軍守備隊は持ち堪え、米軍に対して戦死傷者2万8,000名あまりの損害を与えたのである。硫黄島の戦いは、大東亜戦争で米軍が反転攻勢に出て以降の戦闘で、戦死傷者が日本軍を上回った唯一の地上戦であった。

 この時期、硫黄島は地政学的には、サイパンと東京のほぼ中間に位置し、「太平洋の防波堤たらん」としたサイパンが陥落し絶対国防圏が崩壊したことで、本土防衛の外郭地帯としての戦略的価値を高めていた。米軍は、マリアナ諸島を基地とした日本本土爆撃に向かうB29戦略爆撃機の不時着場として、さらには爆撃を護衛する戦闘機基地として硫黄島を考えていた。

 米国では、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は非常に高い。とくに戦後、戦史研究家や米軍人に、「太平洋戦争(大東亜戦争)における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問すると、栗林忠道の名前を挙げる者が多い。

 栗林は従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築する。不用意な万歳突撃などによる玉砕を厳禁し、部下に徹底抗戦を指示した。M4シャーマン中戦車やLVTなどを大量に撃破・擱坐させるといった物的損害を与えることにも成功し、のちに米軍幹部をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。

 ニミッツ元帥などは「この豆粒大の火山灰の堆積の上に、日本軍は精強な戦闘部隊である陸軍1万4,000名と、海軍陸戦隊7,000名よりなる守備隊をはりつけた。硫黄島防備の総指揮官である栗林忠道中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞とすることに着手した。この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いてほかに求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、空中偵察写真に現れた栗林部隊の周到な準備を一見して舌を巻いた」(『ニミッツの太平洋海戦史』)と記している。


<米国の力を冷静に分析していた栗林中将>
 栗林は明治24 (1891)年7月7日、長野県埴科郡松代町(現・長野市松代町)の士族の家に生まれている。恩師の勧めで陸軍士官学校に進学し、旧制中学出身ながら、陸大軍刀組の騎兵将校としての道を順調に歩んだ。

 昭和2(1927)年から米国駐在武官(大使館附)として、昭和6年からはカナダ駐在武官公使館附)となり、延べ5年間にわたって海外勤務を経験している。日本陸軍の建軍の経緯から、ドイツ派の多い陸軍内では少数派の『知米派』で、国際事情にも明るく、対米開戦にも批判的であったと言われている。

 帰国後、騎兵連隊長を経験した栗林は陸軍省馬政課長の時、軍歌「愛馬進軍歌」を一般募集し、選定に携わったりもしている。


<死を覚悟していた栗林中将>

 昭和19年5月27日、小笠原方面を守備するため父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任する。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任し、海軍陸戦隊も指揮下におき陸海軍硫黄島守備隊の小笠原方面最高指揮官となる。

 昭和20年2月19日、総勢600隻を超える米艦隊と11万2,000名の米兵が群青の海を埋め尽くし、硫黄島に上陸を開始した。日本軍守備隊は上陸した米軍に甚大な損害を与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報を大本営に打電する。

 組織的戦闘の最末期となった3月16日午後4時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に打電し、辞世の句「国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」を一緒に送っている。翌3月17日、大本営よりその功績が認められ、53歳の若さで陸軍大将に昇進する。これは平時とは異なる戦時ではあるが、日本陸海軍中最年少の大将昇進であった。

 3月26日、栗林は生き残った400名余の残存兵の先頭に立って最後の総攻撃を敢行し、戦死を遂げる。総攻撃の際に階級章を外していたため遺体は確認されていない。まさに日本本土の防波堤たらんとして、硫黄島では栗林以下多くの先人たちが命を賭したのである。

栗林忠道 硫黄島からの手紙 (文春文庫)

栗林忠道 硫黄島からの手紙 (文春文庫)

硫黄島栗林忠道大将の教訓

硫黄島栗林忠道大将の教訓

国の為 重き努を果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

── 栗林忠道中将 辞世

精魂を 込め戦ひし人未だ 地下に眠りて 島は悲しき

── 今上天皇御製