NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

耐乏精神

多忙は続く。


耐乏精神。

 懐かしんでいるのではない。いまこそ、あの時代の再現を待望しているのである。最近は親が子を殺し、子が親を殺したニュースにさほど驚かない。

 このだらけ方、たるみ方の一因は“耐乏”という言葉が死語となったせいではないか。商品のみならず人情も運命もすべて欲しいままになる、ならなきゃ元からブッ壊せという錯覚が人間を狂わせた。これはもう、理屈ではない。

 小麦粉もバターもチーズも値上がりしているうちはいい。手に入らなくなったらどうするか。当面は手に入る米の粉やマーガリンで間に合わせればいいが、それもなくなったら耐乏するしかない。

 我慢して耐えるしかほかに方法がない状況の到来を、私はどれほど切望していることか。耐乏精神は努力で身につくものではない。状況の中であえいで育つ。

 耐える姿勢が固まったところで、善悪の基本をばかばかしいほど単純に教育してはどうか。私たちサクラ読本で育った者は、修身の時間に死んでもラッパを離さなかった木口小平を教えられたのはよく知られているとおりだが、木口小平の反対側のページにはよその家にボールを投げ込んだ少年が、詫(わ)びにいった様子が絵付きで示されていた。後の陽明学者、中江藤樹が、藩に仕える身で仕事中に家に立ち寄ってひと休みしようと思ったのを、母親が激しく叱(しか)って追い返した話も教科書で習った記憶がある。物事のケジメを私たちは単純明快に叩(たた)きこまれて育った。

 かつて運動会で1、2等を決めるのすら差別だなどと屁(へ)理屈教育を受けて育った世代が、北京オリンピックではたかがスポーツで世界一の記録を出した選手をナニサマ扱いして興奮した。当てにならない人間を鍛え直すのは屁理屈ではなく試練だ。耐乏精神が育つなら、不況も物価高騰も大歓迎である。

── 上坂冬子(『老いの一喝』)

上坂冬子の老いの一喝

上坂冬子の老いの一喝