NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

歴史の善悪に拘泥してはならぬ。

福田恆存に曰く、

善玉と悪玉とを単純に分けて考へる俗論を警戒せねばならぬ。ことに新聞はその種の道徳的センチメンタリズムと絶縁しなければならぬ

── 福田恆存『日本への遺言―福田恒存語録』


「【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 歴史の善悪に拘泥してはならぬ」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/life/news/130923/art13092303310003-n1.htm

 ≪ドイツ観念論の悪しき影響≫

 わが日本国では明治以来、大学の哲学科はドイツ中心なので、あまり役に立たないドイツ哲学ばかりを究めてきた。具体的なものより抽象的なものの方がえらいと思い込んでいるのも、全部ドイツ観念論の影響である。人間の快と苦とか有用性のあるなしとか、具体的なものの方が実生活では大事なのに、人類普遍の倫理とか世界史の普遍の法則とか、そういう大仰なまやかしばかりを大学で教えてきた。だから、大学で習ったことが全然役に立たないのである。

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が日本経済を改変してくれるのは当たり前なのに、まずそれがどれほど悪か善かばかり議論しようとする。原発再稼働も同様だ。原発の有用性と危険性は誰にも認識できるのに、市民派新聞は原発を端(はな)から悪と決めてかかる。事故前は有用だったのだから、コペルニクス的転回だといえる。

 最近は世の中が大きく変わってきた。前は善だったものも気がつくと悪になっていることが頻繁にある。NHKドラマ「八重の桜」で、京都を守護し民生の安定を図ろうとする会津の殿様の善意がどんどん悪になり、追い詰められていくのを日本人は初めて見た。あれを戦前・戦中の日本に重ねてみていた人も多かっただろう。白人からのアジアの解放とか東亜新秩序をつくり、アジアの盟主になって貧しいアジア諸国を引っ張っていこうとした、多くの善意のアジア主義者たちもいたのだった。それが戦後はすべて悪になった。

 人間の動機に善悪はない。小麦を作りパンを得る人もコンビニでパンを買う人もパンを盗む人も、動機はただの食欲だ。それが善になるか悪になるかは、その人の見通し次第である。一生懸命小麦を作っても、災害で畑が全滅して一家離散となれば、それだって悪になる。盗んだ一かけのパンでも餓死寸前の子供を救えば、少し複雑な気分になる分、善だろう。


 ≪ベンサム説く紙一重の善悪≫

 以上は、英国のジェレミー・ベンサム功利主義哲学を少し噛(か)み砕いて書いてみただけなのだが、意外に新鮮に見えるのは、日本人の主に文系の知識がドイツにばかり頼ってきたからではないか。

 最近のマスコミ報道を見ていても、初めから善悪を決めてかかろうとすることが実に多い。少し前の話だが、大阪府議会選で維新の会が圧勝し、君が代の起立斉唱を教職員に義務づける全国初の「君が代条例案」を可決した。戦前の軍国主義教育で多くの若者が一つの思想に染められ戦争へ駆り出されたという過去の問題を基準に、条例は戦後民主主義への真正面からの挑戦状だと受け取った朝日新聞社は大々的な反対キャンペーンを張る。が、街中に出てインタビューをすると、9割の人々が賛成で、朝日社内の良心的な人々に、「自分たちは善ではなかったのか?」と大いに首を傾(かし)げさせた。

 善悪は初めからあるのではなく未来の見通しに過ぎない。最初に善悪を決めつけて取材してはいけないのである。決めつければ、所詮は反感と共感の原理になり、好・不快感とか趣味の違い、ひどい場合、党派性が丸出しになる。これが新聞記事やニュースキャスターの解説が読者、視聴者の信頼を損ねている最大の理由だろう。

 首相の靖国参拝問題の解説も然(しか)りだ。「八重の桜」も、勝者の明治政府の歴史ではなく、敗者の会津藩の歴史だったので耳目を引いた。もっとも、よく言われるように、歴史とは勝者の歴史である。第二次大戦後の世界秩序も、日独伊のファシズム国家を連合国が打ち負かして作り上げた勝者の国際秩序だ。そんな言論空間に歴史問題を放り込んでも日本に勝ち目はない、靖国参拝はやめた方が賢明だと言わんばかりの人がいた。


 ≪有用性ある未来を選択せよ≫

 ただ、時代は刻々と移り、むしろ、その言論空間が維持困難だということが次第に明らかになっていく。勝者の歴史が説得力を失いつつあるからこそ、「八重の桜」が新鮮に映るのではないのか。

 そもそも一国の首相が行けない場所があり、それが外交カードに使われること自体が異常なのである。これは歴史問題というより哲学問題である。現在韓国も中国も指導者の政権基盤が弱く、政策も確固としていない。中国は毛沢東時代の継承に、韓国は植民地時代の否定にと、ともに徒(いたずら)に歴史の中に未来を求めようとしている。

 歴史問題に関しては、伊藤博文を暗殺した韓国の「テロリスト英雄」の安重根を、異民族を抱える中国としては、認めるわけにはいかず、共闘体制が取れていない。前回の中韓首脳会談は、日本外しではなく、北朝鮮外しであった。未来ビジョン共同声明には、「日本」という言葉すらなかった。

 人類普遍の倫理をつかさどる審判者が歴史の中にいて、善悪を決めているのではない。戦後の国際秩序に便乗し、過去に呪縛され、どんどん悪になっているのは、むしろ中韓なのだ。われわれは、彼らの政治的混乱を見極め、決然として有用性のある未来を選択すべきときである。


歴史には善も悪もない。
あるのは、現代の、後世の価値観での判断だけだ。

 「将来に向かってよりよい歴史をつくり出す」という家永三郎氏の発言は何事か。歴史は作り出すものではない。勿論、作り出したものでもない。歴史が吾々を作り出したのである。日本国憲法も民主主義、平和主義も歴史が作り出したのである。最良の史書においては歴史が主人公になり、その顔が見える様に書かれている。家永氏の軽視した「記紀」は正にそういうものではないか。右に引用した家永三郎氏の「新日本史」末尾に徴して見ても明らかな通り、この書物の主人公は歴史ではなく現代である。現代の顔を、或は自分の顔を映し出す自惚れ鏡を歴史教科書と称することは許されない。古来、歴史を鏡と称して来たのは、それによって現代、及び自分の歪みを匡(ただ)す意味合いのものではなかったか。

── 福田恆存『私の歴史教室』