一日一言
七月二十九日 自らを恥じる
恥を知らないような人間は人ではない。だが、「恥を知れ」と人の恥を暴こうとする者がいるが、自分が独り神の前に座って考えてみると、果たしてどうだろうか、自分で自分を恥じる心の厚い人は、人の恥を曝(さら)すことはまずない。
人知らぬ心に耻ぢよ恥じてこそ
遂に恥なき身とそなりぬる
自らを“愚禿”と号した親鸞聖人も言う。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
「善人が救われるのに、悪人が救われない筈がない」
いわゆる“悪人正機”説である。
「善人だと思い込んでいるような人間でさえ救われるのだから、“自分にも悪い所がある”と自覚しているような人間が救われない筈がない」と。
ニーチェにも似た親鸞(弟子の唯円)一流の逆説的な言い回しである。
キリストに言わせれば、「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」と言うことである。
安吾も然り。
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。悪人は――悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独といふ必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないといふ崖があるのだ。善人尚もて往生を遂ぐ況(いわん)や悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、然し、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、そして、又、私自身神サマにならうなどと夢にも考へてゐないけれども、孤独の性格の故に私は悪人を愛してをり、又、私自身が悪人でもあるのである。けれどもそれは孤独の性格の故であり、悪人の悪自体を正気で愛し得るものではない。
文学とは人間の如何に生くべきかといふ孤独の曠野の遍歴の果実であり、この崖に立つ悪の華だが、悪自体ではない。
私は悪人だから、悪事が厭だ。悪い自分が厭で厭でたまらないのだ。ナマの私が厭で不潔で汚くてけがらはしくて泣きたいのだ。私はできるなら自分をズタ/\に引き裂いてやりたい。そしてもし縫ひ直せるものならすこしでもましなやうに縫ひ直したい。
私は自分を引きさいて少しでもましなものに縫ひ直さうと小説を書くのだけれども、私の本性までケチであり、職人の腕がだめだから、厭らしい浅ましい姿だけしか書けなくて私はいつも絶望の一足手前でふみとゞまつてゐるだけだ。
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