花を見る
「人生の過渡期にあるときマイナス思考は伝染し、鬱病のリスクは高まる」(GIGAZINE)
→ http://gigazine.net/news/20130428-negative-positive/
鬱病に関してはインターネットの使い方で鬱病かどうかがわかったり、禁煙によりうつが改善されるという研究結果も出ているのですが、新たな研究によって、人は人生の過渡期にある時、周囲の人間のマイナス思考が伝染しやすく、それに伴い欝病のリスクも上がるということが新たな研究で明らかになりました。
Cognitive Vulnerability to Depression Can Be Contagious
http://cpx.sagepub.com/content/early/2013/04/15/2167702613485075.fullNegative Thoughts Can Be Contagious | MyHealthNewsDaily.com
http://www.myhealthnewsdaily.com/3746-negative-thoughts-depression-contagious.html
物事を悪い方向に考える傾向や自身の欠点を責め続ける性質は「認知の脆弱性」と呼ばれるのですが、ノートルダム大学の研究によると103組206人のルームメイトを持つ学生を調査したところ、精神的に落ち込みやすい人と同部屋の学生にはこの「認知の脆弱性」が発見され、同じように暗くなりうつ状態に近付いていくことが明らかになりました。調査は人生の大きな転換期にある大学1年生を対象に3ヶ月間行われたとのこと。学生はルームメイトを自分で選ぶことができず、ルームメイトはランダムに選ばれるため、サンプルには最適だったそうです。過去の研究から認知が脆弱になるにつれ鬱病になるリスクが高まることがわかっているのですが、今回の研究ではそれに加え「認知の脆弱性のレベルは、明らかにルームメイトのそれに影響されることを被験者から発見した」と研究者は述べています。なお、反対にルームメイトが明るい人物なら欝病とは無縁でいられるとも言えます。
研究ではさらに、大学生活の最初の3か月間で「認知の脆弱性」を経験した人々は経験しなかった人々と比較して、半年間で鬱状態になるリスクをほぼ2倍を持っていることを発見しました。また、研究結果によると参加者が高いストレスの条件下に置かれた時、影響は特に強かったそうです。以前の研究では、一度思春期を経験すれば、その後「認知の脆弱性」レベルはあまり変わらないと考えられていましたが、新しい実験結果によって人は新しい状況下に置かれるなど人生の大きな転換を迎えた時に、「認知の脆弱性」レベルが変化するのだと研究者は述べています。
研究者によると、おそらく遺伝・生物学および環境要因がすべてが「認知の脆弱性」レベルに役割を果たすとのこと。今後さらに、大学1年生以外を対象として調査を行い、「認知の脆弱性」レベルが時間と共に変化するのかどうか、という点を調べる研究が必要とされています。「私たちの発見は、心理学、生物学の要因で成年期以降は変えられないと考えられていたことが、変化の余地があると述べている他の多くの研究結果と一致しています。」と研究者は述べています。
鬱はうつる。
強くならなきゃ。
明日は久し振りの休み。
夜更かしで安吾。
生きてる人間といふものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間といふものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようといふ、せつぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思ひこまうとし、体当り、遁走、まつたく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想といふものがそこから生れて育つてきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにゐられなくなつた棒キレみたいなものの一つが文学だ。
文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。
人生とは銘々が銘々の手でつくるものだ。人間はかういふものだと諦めて、奥義にとぢこもり悟りをひらくのは無難だが、さうはできない人間がある。「万事たのむべからず」かう見込んで出家遁世、よく見える目で徒然草を書くといふのは落第生のやることで、人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまへといふやうなことは成り立たない。恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起り、去年の恋は今年は色がさめるものだと分つてゐても、だから恋をするなとは言へないものだ。それをしなければ生きてゐる意味がないやうなもので、生きるといふことは全くバカげたことだけれども、ともかく力いつぱい生きてみるより仕方がない。
人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらへて行くのだ。
人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。
自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。
文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、人生の主題眼目は常にたゞ自分が生きるといふことだけだ。
人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。
美といふものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支へとなるもので、よく見える目といふものによつて見えるものではない。美は悲しいものだ。孤独なものだ。無慙なものだ。不幸なものだ。人間がさういふものなのだから。
自殺なんて、なんだらう。そんなものこそ、理窟も何もいりやしない。風みたいに無意味なものだ。
人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。
教祖の文学・不良少年とキリスト (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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