NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『運命と人力と』

露伴の『努力論』より。


幸田露伴著『努力論』(2)

『運命と人力と』

 運命が善いの悪いのといって、女々しい泣言をならべつつ他人の同情を買わんとするが如き形迹(けいせき)を示す者は庸劣凡下(ようれつぼんげ)の徒の事である。いやしくも英雄豪傑の気象あり、豪傑の骨頭あるものは、「大丈夫命造るべし、命を言うべからず」と豪語して、自ら大斧の揮(ふる)い巨鑿(のみ)を使って、我が運命を刻み出して然るべきなのである。

 およそ世の中に、運命が自己の誕生の日の十干十二支や、九宮二十八宿なんぞによって前定して居るものと信じたり、または自己の有して居る骨格や血色なんぞによって前定して居るものと信じて、そして自己の好運ならざるを嘆(たん)ずる者ほど、悲しむべき不幸の人はない。何故となれば、その如き薄弱貧小な意気や感情や思想は、直ちにこれ否運を招き致し、好運を疎隔するに相当するところのものであるからである。

 生まれた年月や、おのずからなる面貌やが、真にその人の運命に関するか関せぬか別問題としても、そういうことに頭を悩ましたり心を苦しめたりするということが、既に余り感心せぬことである。

 但し聡明な観察者となり得ぬまでも、注意深き観察者となって世間の実際を見渡したならば、吾人はたちまちにして一の大なる灸所を見出すことが出来るであろう。それは世上の成功者は皆自己の意思や勤勉や仁徳の力によって自己の好結果を収め得たことを信じて居り、そして失敗者は皆自己の罪ではないが、運命の然らしめたがめに失敗の苦境に陥ったことを嘆じて居るとい事実である。

 即ち成功者は自己の力として運命を解釈し、失敗者は運命の力として自己を解釈して居るのである。

 成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違ない。

 即ち運命というものも存在して居って、そして人間を幸不幸にして居るには相違ないが、個人の力というものも存在して居って、そしてまた人間を幸不幸にしているに相違ないということに帰着するのである。ただ、その間において成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力の側を忘れ、各一方に偏した観察をなして居るのである。

 運命とは何である。時計の針の進行が即ち運命である。一時の次に二時が来り、二時の次に三時が来り、四時五時六時となり、七時八時九時十時となり、是の如くにして一日去り一日来り、一月去り一月来り、春去り夏来り、秋去り冬来り、年去り年来り、人生れ人死し、地球成り地球壊れる、それが即ち運命である。世界や国家や団体や個人にとっての幸運否運というが如きは、実は運命の一小断片であって、そしてそれに対して人間の私の評価を附したるに過ぎぬのである。

 即ち好運を牽き出す人は常に自己を責め、自己の掌より紅血を滴らし、而して堪へ難き痛楚(つうそ)を忍びて、その線を牽き動かしつつ、終(つい)に重大なる体躯の好運の神を招き致すのである。

 何事によらず自己を責むるの精神に富み、一切の過失や、齟齬(そご)や、不足や、不妙や、あらゆる拙なること、愚なること、好からぬことの原因を自己一個に帰して、決して部下を責めず、朋友を責めず、他人を咎めず、運命を咎め怨まず、ただ吾が掌の皮薄く、吾が腕の力足らずして、好運を招き致す能はずとなし、非常の痛楚を忍びつつ、努力して事に従うものは、世上の成功者に於て必らず認め得るの事例である。

 けだし自ら責むるといふ事ほど、有力に自己の欠陥を補い行くことは無く、自己の欠陥を補い行くことほど、自己をして成功者の資格を得せしむるものの無いのは明白な道理である。又自ら責むるといふことほど、有力に他の同情を惹くことは無く、他の同情を惹くことほど、自己の事業を成功に近づけることは無いのも明白な道理である。

 すべて古来の偉人傑士の伝記をひもといて見たならば、何人もその人々が必ず自らを責むるの人であって、人を責め他を怨むような人でない事を見出すであろうし、それからまた翻って各種不祥の事を惹起した人の経歴を考え検べたならば、必ずその人々が自己を責むるの念に乏しくて、他を責め人を怨む心の強い人であることを見出すであろう。否運を牽き出す人は常に自己を責めないで他人を責め怨むものである。そして柔軟な手当たりの好い線を手にして、自己の掌を痛むるほどの事をもせず、容易に軽くしてかつ醜なる否運の神を牽き出し来るのである。

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)


幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法

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