NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

ILLUSION

食うや食わずのカナダ時代、穴が開くほど読み返したリチャード・バック『イリュージョン』

久しぶりに開いてみる。

1 イントロダクション


1、一人の救世主がこの地上にやってこられた。お生まれになったのは、インディアナの聖地。お育ちになったのはフォートウェインにある神秘の丘。


2、救世主はまずインディアナの公立学校でこの世界のことを学ばれた。卒業後は、自動車の修理工となられ、その仕事を通じてまた新たなこともお知りになった。


3、しかし、救世主は、他の土地や他の学校、ずっと前に生きていた時のことも、憶えておられたのである。その思い出としての知識は、この世界で強く賢く生きていくのにとても役に立った。


4、救世主が、御自分のことを救世主として自覚なされ始めたのと、それを知った人々が相談にやってくるようになったのとはほとんど同時であった。


5、救世主は信じておられた。いかなる人であっても自分を神の子だと考えるのはもっともなことだと。人々は集まり始めていた。救世主の教えや、御手が触れることを求める人々は増え続けた。救世主がお働きになる店や工場だけではなく、表の通りでも人々は溢れていた。お歩きになる救世主の影が自分の上に重なることによって、生き方をより良く変えようとする人々であった。


6、ある時、自動車修理工場の経営者が救世主に出てゆくことを命じた。救世主に会うため、人々があまり多く詰めかけて、工場の仕事が全くできなくなったためである。


7、救世主は自動車修理工場を出られた。郊外へと向かわれた。後についてきた人々は救世主のことを、“自動車修理の──さん”ではなく、ちゃんと救世主、奇跡を行なう人物と呼び始めた。
 人々はそれを信じた。救世主は現実に、数々の奇跡をおこされたからである。


8、救世主が話しておられる時に例えば暴風雨がやってきたとする。もちろん屋外である。聴衆は濡れることがなく、稲妻が走り雷が爆撃のように鳴り響いても、救世主の御声ははっきりと届いた。


9、救世主の深く静かな声。
 「健康や病気、富裕と貧困、自由と隷属、これらを受け入れるかどうか、決めるのは私達です。運命を支配するのは私達自身であって、他の誰でもない」


10、と言われた時に一人の旋盤工が質問した。
 「救世主様、あなたにしてみればそれはたやすいことかも知れません。なぜなら、あなたには私達と違って神のお導きがあるし、私達みたいに苦労もしないでしょうし、私達は働かなくてはならないのです」


11、救世主はやっぱり寓話がお好きだった。
 「昔、大きな川の底に村があった。遠くから見ると一本の水晶のように光る程きれいに澄んだ大きな川だった。その川に生き物の住む村があった」


12、寓話は続く。
 「川の水は全ての生き物の上を静かに、優しく撫でるように流れていた。全ての上を、平等に、若者、老人、金持ち、貧乏人、善良なるもの悪しきもの、全ての上を。
 水晶のように澄んだ川であることだけを知っているかのように、川自身それを知っているかのような、自然の流れだった」


13、「生き物は、川底の小枝や小石につかまって生きていた。そのしがみつく方法やつかまるものは様々だったが、流れに逆らうということが彼らの生活様式の根本だったわけだ。生まれた時からそうしてきたのだから」


14、寓話は続いている。
 「しかし、生き物の中の一人が叫び出す日がきた。
 『もうあきあきだ。こんな風にしがみついているのには完全に飽きた。見たわけじゃないが、この川の流れは優しいし、どこへ出るのか教えてくれそうな気がする。連れてって欲しいよ俺は、このままだと退屈で死んじゃうよ。あんたらはそう思わないか?』」


15、「他の生き物は、そうは思わなかった。叫び出した奴を笑うのもいたくらいだ。
 『お前はバカだな、手を離してどっかいってみな、お前の大好きなこの川の流れは、少しずつお前を弱らせて、体に穴をあけるくらい軽く石にぶつけたりして、最後に、岩に叩きつけて殺してしまうんだ。退屈で死ぬよりも確実だぜこれは』」


16、救世主のお好きな寓話は続く。
 「しかし、彼はみんなの言うことなど聞きたくなかった。それくらい退屈していた。それで大きく息を吸うとパッと手を離してしまった。とたんに流れに巻き込まれて岩に激突した」


17、「ところが、彼はそれでもその岩にしがみつくのをいやがったので、流れは彼のからだを再び揺り動かして川底からすくい上げ、それ以上傷を受けることはなかった」


18、「下流へ来ると、彼を初めて見る生き物達が興奮して叫んだ。
 『おい、ちょっと見てみろ、あいつ飛んでるぞ、奇跡をおこしてる、あれはきっと救世主だ、俺達を助けてくれる人だよきっと』」


19、「流れに乗ったものは彼らに向かって言ってやった。
 『救世主なんかじゃない、あんたらと同じさ、思い切って手を離しさえすればいいんだ、流れはすくい上げてくれるよ。自由にしてくれる、手を離すんだ、それしかない』」


20、「それでもしがみついた岩から手を離すものはいなかった。さらに“救世主”“救世主”と叫び続けた。
 しかし、停まって止まっているもの達には、流れている彼の姿は一瞬しか見えはしない。飛ぶように流れる一個の生き物のことはすぐに伝説として語られ始めた」


21、寓話をお話になる度に、日一日と群衆の数が増えていくのを、救世主はお気づきになられた。全くそれはすごかった。群衆は熱狂的で、私らに食べ物を、私らの子供の病気を治して下さい、私らと共に生きて下さい、と口々に叫び続けた。そのうちに救世主は、一人で丘にお登りになり、神に祈られた。次のようなことを。


22、「神よ、予言者イザヤよ、こういうことが私に与えられたお仕事なのですか? どうも手に負えません、私を解放して下さい、私にはできない、他人の悩みなど本来関係ないものだ、一万人の嘆きが一生付いてまわるなんて、ゾッとします。まあ、こうなったことに対する責任は全て私にありますが、それが神よ、あなたの御心なのですか? 私はエンジンオイルの匂いがなつかしいのです、他の者と同じ生活にもう一度戻ってはいけませんか?」


23、神の答えが返ってきた。男の声でも女でもない、大きくも小さくもない優しい声で。
 「私の意志じゃない、君のいう事はわかるよ、君が思っているは、君のためを思う私が考えていることと同じだからね、君の好きなようにしなさい、そこの世界でうまくやっていきなさい」


24、その答えを聞いて、救世主は大変喜ばれた。まず感謝の言葉を簡単に述べられ、次には自動車修理工愛唱歌集より“ユア・チーティン・ハート”をハミングされながら、丘を降りて来られた。群衆は苛立っていた。再び救世主を取り囲んだ。様々な苦悩や要求を叫びながら迫った。
 そこで救世主は群衆の真中めがけて微笑み、楽しそうなお声でこう言われた。
 「ええと、私はこの仕事をやめるんだよ」


25、群衆はあまりの驚きに静まり返ってしまった。


26、静けさの中、救世主のお声はよく響いた。
 「ねえ君達、私はさっき神に向かって聞いてきた。『私はどんな犠牲を払おうとも何よりもまずこの苦悩に満ちた世の中を救いたいのです』とね。すると神は、私のなすべきことをお教えになった。私は神の言うことに従うべきでしょうかね?」


27、群衆は「もちろんだ!」と口をあわせて叫んだ。
 「当たり前です、神がお望みになるのなら地獄の責め苦も喜んで受けるべきです」静けさの後のどよめきは恐ろしい音量となって、救世主は思わず耳をふさがれたりした。


28、「ええと、その責め苦がどんなに想像を絶したものであってもかね?」とまた救世主は、群衆のどよめきが静まるのを見はからって言われた。


29、「首を吊られようと、磔にされて火で焼かれようとも光栄だと思うべきです。それが神の御心ならば」そう群衆は答えた。


30、「うん、それではどうかな」と救世主は再び尋ねられた。群衆のざわめきは続いていて、大声をお出しにならなくてはいけなかった。
 「もし、神が君達の目の前にお立ちになって、『これから先ずっと、この世界で幸福に生きることを命ずる』とおっしゃられたら、その時君達はどうしますか?」


31、群衆は答えられなかった。ざわめきも止み、沈黙が一帯を支配したのだ。


32、救世主は、大きな沈黙の固まりになってしまった群衆に向かって、言われた。
 「ええと、私は自分が好まない道は歩くまいと思うのですよ。私が学んだのはまさにこのことなのです。だから、君達も、人に頼ったりしないで自分の好きなように生きなさい、そのためにも、私はどこかに行ってしまおうと決めたんです」


33、救世主は群衆の間を抜け、エンジンオイルの匂いの方へとお歩きになった。不思議なことに、救世主が群衆の中に混じった時には、その中の一人一人と見分けがつかなくなってしまった。

── リチャード・バック著(村上龍訳)『イリュージョン』


イリュージョン (集英社文庫 ハ 3-1)

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かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)

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