NAKAMOTO PERSONAL

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現行憲法は『米国製』

「【新憲法起草】現行憲法は『米国製』」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120329/plc12032901370001-n1.htm

現行憲法 制定の経緯

 現行憲法は「米国製」と言われるが、終戦直後の一時期、日本主体で憲法論議が進められていた事実はあまり知られていない。国際政治の荒波に翻弄された憲法制定の経緯をひもとく。

 敗戦から約2カ月がたった昭和20年10月13日、当時の幣原喜重郎内閣は閣議で、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会設置を決定した。

 松本委員会は「解釈運用さえ誤らなければ明治憲法も民主的」との立場だった。初めに改正ありきではなく、改正が必要か否かも含めて研究することを目的としていた。

 ◆マッカーサー三原則

 その松本委員会の運命を変えたのは、審議内容を報じた21年2月1日付毎日新聞のスクープ記事だった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は「松本委員会案は明治憲法の焼き直しにすぎない」として、マッカーサー元帥が2月3日、ホイットニー民政局長に総司令部主導の草案作りを命じた。

 その際、「天皇は元首」「自衛戦争の放棄」「封建制度廃止」を記したマッカーサー三原則が提示されたとされる。

 民政局では、ケーディス次長を中心に起草作業が行われ、2月13日、総司令部案が日本側に示された。

 日本側はこれを受け、旧帝国議会の衆議院帝国憲法改正案委員小委員会(通称・芦田小委員会)、旧貴族院の帝国憲法改正案特別委員小委員会などで、GHQ草案をもとに、修正論議を重ねた。

 ◆GHQ草案を修正

 芦田均氏を委員長とする芦田小委員会では、芦田氏が21年7月、日本の戦争放棄を求めた憲法9条の2項に「前項の目的を達するため」との文言の挿入を提案した。芦田氏は後に、「自衛のための戦力保持の余地を残した」と語った。

 当時も、GHQの上部組織である旧ソ連を含む極東委員会が、この芦田修正により日本の自衛戦力保持が可能になったと判断し、閣僚などをシビリアン(文民)とする文民条項の導入を強く要請した。

 このような経緯を経て、GHQ草案に修正を加えて制定されたのが、現行の日本国憲法である。

□改正案や新憲法制定

 ■政財界・有識者や報道機関など相次ぎ提言

 日本国憲法をめぐっては、これまでにいくつもの改正案や新憲法制定の提言がなされている。

 サンフランシスコ講和条約発効2年後の昭和29年には、早くも旧自由党や改進党の憲法調査会が改正要綱などを発表。旧自由党の要綱では、天皇を元首と定め、「最小限度の軍隊」の設置を規定した。

 昭和47年には、自民党の憲法調査会が稲葉修会長私案として天皇の地位の明確化や国による家庭の保護などの改正方針を提言した。

 冷戦終結後も提言が相次いだ。

 政党では、自民党が結党50周年の平成17年に条文化した「新憲法草案」を発表。象徴天皇制の維持や「自衛軍」の保持、政教分離要件の緩和などを世に問うた。民主党憲法調査会が同年の「憲法提言」で、「首相主導の政府運営の実現」「新しい人権の確立」などの方針を訴えた。旧民社党の議員と有識者で作る創憲会議も同年、国旗国歌や領土規定、外国人の権利保護などを新設した「新憲法草案」をまとめた。このほか、鳩山由紀夫元首相ら議員個人の試案もある。

 民間では、中曽根康弘元首相が会長を務める世界平和研究所が同年、「憲法改正試案」を公表。前文で「独自の文化と固有の民族生活」を強調したほか、「防衛軍」の保持や憲法裁判所の創設などを訴えた。有識者でつくる「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(民間憲法臨調)は憲法施行60周年の19年、歴史や伝統を踏まえた緩やかな政教分離規定などを盛り込んだ「新憲法大綱案」を発表した。

 経済界では、経済同友会(15年)、日本商工会議所(16年)、経団連(17年)、日本青年会議所(18年)から意見書などが出されている。報道機関では、読売新聞社が6年、12年、16年の3回、「憲法改正試案」を公表している。

□産経新聞と憲法

 ■自衛隊・天皇・PKO・9条改正で主張展開

 産経新聞は昭和56年元日付年頭の主張で、新聞社として初めて憲法改正を主張した。当時の日本の公法学者の9割が自衛隊違憲論を唱えていた状況を踏まえ、自衛隊を認めるための9条改正を訴える内容だった。

 その後も憲法記念日の5月3日付主張などで、憲法改正に関するいくつかの提言を行った。

 例えば、56年5月3日付主張で、天皇が元首であるという法的地位を明確にしてもよいのではないかと呼びかけた。

 昭和天皇の崩御に伴うご大喪が行われた平成元年の5月3日付主張では、当時の竹下登内閣が現行憲法の政教分離規定を厳格(杓子(しゃくし)定規)に解釈し、皇室行事の「葬場殿の儀」と国の儀式としての「大喪の礼」に分けたことを批判し、柔軟な解釈を求めた。

 湾岸戦争が始まった年の3年5月3日付主張は、それまでの一国平和主義を批判し、集団的自衛権の行使や国連の平和維持活動(PKO)への自衛隊派遣などの問題に言及した。

 阪神大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件が重なった平成7年には、5月3日付から3日連続で憲法問題を論じ、緊急時に首相に非常大権を与えることや自衛隊の地位を憲法で明確に規定することなどの必要性を訴えた。

 9年から10年にかけ、神戸市の中学生による連続児童殺傷事件や栃木県黒磯市での中学生による女性教諭刺殺事件など少年の凶悪事件が相次いだ。これを受けた10年5月3日付主張は、家庭教育を憲法でどう位置づけるかを論じ、両親に教育義務を課したドイツ基本法のような明確な家庭教育条項を憲法に盛り込むことを提案した。

 その後、軍拡を続ける中国と核開発を公言する北朝鮮の脅威が深刻化し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することをうたった憲法の前文や9条の改正を重ねて訴えた。

 昨年3月の東日本大震災から2カ月後の5月3日付主張は、憲法の国家緊急事態に対する規定が不十分であることを改めて指摘し、非常時に頼りになる自衛隊を「国民の軍隊」として明記する必要性を強調した。

「 米人の作りし日本国憲法 今日より実施の由。笑ふべし。 」

現行憲法施行当時、永井荷風の日記より。