NAKAMOTO PERSONAL

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“放射能幻想”

「“放射能幻想”を振りまいてきたことへの反省は?」(BLOGOS)
 → http://blogos.com/article/30390/

時代の風:放射能トラウマとリスク=精神科医・斎藤環(毎日新聞)

 福島県南相馬市で診療と内部被ばくの検査、健診、除染などにかかわっている東大医科研の坪倉正治医師によれば、現時点で慢性被ばくによる大きな実被害の報告は、ほとんどないとのことである(小松秀樹「放射能トラウマ」医療ガバナンス学会メールマガジンvol・303)。

 むしろ深刻なのは、外部からの批判や報道などによる社会的な影響のほうである。原発事故による最大の被害は、子どもの“放射能トラウマ”だ。しかもその多くは、大人の“放射能トラウマ”による“2次的放射能トラウマ”であり、年齢が低いほどトラウマの程度が強い印象があるという。

 風評被害の影響もあって、うつ状態になる人が増えたり、家族が崩壊したりという事態は耳にしていた。現地で子どもの電話相談窓口を担当している人からは、このところ虐待相談も急増しているという話も聞いた。

 被災地での虐待件数についてはまだ正確な統計データが得られていないが、屋外で遊ぶ機会の減った子どもたちが、精神的に不安定な大人と過ごす時間が増えたとすれば、まったくありえない話ではない。

 まぁ、この辺のことは初めからわかっていたことではないかという気がしないでもありません。健康に影響がある「かも知れない」レベルの放射線量が検出されたのは避難区域の中でも一部に限られ、人の住む地域では観測されない以上、より強く懸念されるのは当然、放射線ではなく“放射能トラウマ”の方ですから。この辺は私も危惧してきたところで早い段階から取り上げてきましたけれど、まぁ私がグダグダ言ったところで社会的な影響力は避難区域「外」で計測された放射線と同レベルですから、今さらどうにもなりませんね。一方で社会的な影響力を行使できる立場にありながら、いたずらに不安を煽ったりデマを流したりすることによって“放射能トラウマ”を植え付けて回った人もまた少なくないわけで、その辺の責任は問われねばならないものと思います。その点では毎日新聞だって、いかがなものでしょうか? どうにも厨二病レベルの文明論を連発していた印象が強いのですが……

 放射能はさしあたり人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊しているということ。

 その背景には、低線量被ばくの危険性がはっきりしないという問題がある。放射性物質の放出が及ぼす長期的影響については、不確実な点が多いのだ。生活環境に数世代にわたって残留するごく低レベルの放射能が、住民集団の健康に、長期的にどのような影響を及ぼすのか。「これ以下は安全」という「しきい値」はあるのか。被ばく線量と発がん率の上昇には直線的な関係があるのか。確実なことは何も分かっていない。

 この状況下で立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。事故直後には後者に傾いた私自身も、最近では前者に近い立場だ。不確実な未来予測に基づいて当事者を批判する権利は私にはないと気づいたからだ。

 「人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊している」という行に異論はありませんが、「低線量被ばくの危険性がはっきりしない」という紋切り型には首を傾げます。そう言っておけば中立を装える定型文のように使われる言い回しですけれど、どうにも「まだはっきりしない、実は危険かも知れない」という意味合いに間違って解釈されがちです。実際は「影響があるとしても小さすぎて判別できない、小さすぎて危険性があるのかないのかはっきりしない」だけの話なのですが、斎藤環氏は誤った理解に基づいて話を進めています。そして、こういう誤った印象と理解を垂れ流しにするメディアこそが“放射能幻想”を広めてきた加害者であり、その責を東京電力に押しつけるばかりではなく自ら率先して贖うべき存在なのではないでしょうか。

 「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」という以上に、危険であったとしても影響は測定できないほど軽微なのだから他のことを気にした方が無難というのが私の立場です。しかるに、あろうことか「安全であるという根拠がないので危険」みたいな立場をとって“放射能幻想”を広めてきた人、今もなおそれを続けている人もいるだけに事態は深刻です。“放射能幻想”に基づいて放射「能」のリスクが実際の何万倍以上にも評価される一方で、放射線「以外」のリスク要因は蔑ろにされているのですから。

 1のリスクを避けるために10のリスクを負うとしたら、端的に言って愚かなことですが、チェルノブイリの教訓から何も学ばずにこの愚を犯してきたのが日本社会とも言えます。いかに軽微でもリスクの増大は好ましくないことかも知れませんけれど、避けるべきは「より大きな」リスクの方であることに変わりはないはずです。その点では、たとえば後先を考えない移住みたいな生活の破綻に繋がる行動こそ最も避けるべきものだった(現にチェルノブイリでもそうでした)のですが、放射「能」のリスクだけをことさらに強調して、その他のリスクから目を背けさせてきた人々の責任は厳しく追及されてしかるべきものであり、斎藤環氏にもまた反省が求められるように思います。

 たとえば、今の「子供」の親世代が子供であった頃に大気中の核実験によって降り注いだ放射性物質と現在の福島を含めた日本で観測されたそれの影響を比較してみるべきです。そして放射線「以外」の発がんリスクの存在とも比較してみるべきですし、ガン以外の健康リスクだって考えなければなりません。原発事故後にリスクが0から100になったのか、それとも100から100.01になっただけなのか。原発事故が起こるまで日本人はエデンの園に住んでおり不老不死であったのでしょうか。少なくとも子供を室内に押し込めたり、あるいは食品摂取を制限したり、父親や友達から引き離してまで移住させたりしなければならないような事態には至っていないはずです。それでもリスク評価を誤らせようと、原発事故並びに放射「能」の影響を大きく見せかけようと頑張った人がいる、何とも罪深いことです。

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https://twitter.com/#%21/mizuhofukushima/status/159565268941680642

 一方、未曾有の震災と津波に襲われた3月11日に、脱原発をめざす〜云々と福島集会バスツアーを開催しようなんて動きもあるそうです(まさに津波による死者が出た場所で!)。いやはや、3月11日は原発事故の日ではないのですが、その辺も彼女の頭の中では塗り替えられているのかも知れません。福島みずほにとって大切なのは津波で死んだ1万人以上の犠牲者ではなく、追悼の日に原発反対の声を上げることのようです。率直に言って、良識を疑いますね。原発事故自体は十二分に深刻ではありますが、幸いにして原発事故による直接の死亡者はいない一方、それは比べるべきものではないとしても津波によって万を超える死者が3月11日には発生してしまったわけです。せめて3月11日くらいは、自分の政治的イデオロギーのために悲劇を利用するのは抑えてくれないものかと思います。原発事故は天からの啓示と宣った犬畜生もいましたけれど、福島みずほもその同類なのでしょうか。



翁に曰く、

「人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。」

── 山本夏彦『何用あって月世界へ』