NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

義をもって倒るるとも不義をもって生きず

今日は会津藩九代、最後の藩主 松平容保公の命日です。(明治26年12月5日)


会津はぼくの憧れであり、心の故郷です。


志士と称し、攘夷、天誅の名の下にテロ活動を繰り返す、跳梁跋扈の幕末京都。
火中の栗を拾うが如く、京都守護職を引き受け、京の治安維持に努め、最後まで義を通した義人、義藩。

世論が薩長に傾き、長いものに巻かれていく中、多大な犠牲を払いつつも筋を通し、“義”を守り戦い続けた。
明治の代となっても、会津藩は斗南藩として改編され本州最果ての地に追い遣られ、語るに堪えないような困窮の生活を強いられることとなる。



福沢諭吉は自著『瘠我慢の説』の中で、廃滅する幕府(国)を支え続けることの意義を説きます。
幕府(国)を見捨てることは、大病の父母を見捨てることと同じである。
死ぬことがわかっていても最期まで見捨てる訳にはいかない、と。

 「廃滅の数すでに明(あきらか)なりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後にたおるるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当てを怠らざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望みなく回復を謀るがためにいたずらに苦病を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるがごとくなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故(ことさら)に父母の死を促すがごときは、情において忍びざるところなり。」

 「左(さ)れば自国の衰頽(すいたい)に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千苦万苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単(ひとえ)にこの瘠我慢に依(よ)らざるはなし。ただに戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。」

 「そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再三挙ついに成らざれば退いて江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭(つく)るに至りて城を枕に討死するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。」

“瘠我慢”とは義である。

“ゆるさ”が幅を利かせ、何でもすぐに諦める風潮の昨今、時には“痩せ我慢”も忘れてはならない。


温故知新。

会津藩『幼年者心得之廉書』

  • 毎朝早く起きて、顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝のご挨拶をしなさい。そして、年齢に応じて部屋の中を掃除し、いつお客様がお出でになってもよいようにしなさい。
  • 父母及び目上の方への食事の給仕、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って一緒に食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません。理由があって、どうしても早く食べなければならない時は、その理由を言って許しを得てから食事をしなさい。
  • お父さんやお母さんが家の玄関を出入りなさったり、あるいは目上の方がお客様として玄関にみえられた時、お帰りになる時は、お客様の送り迎えをしなければいけません。
  • 子供が外出をする時は、お父さんやお母さんに行き先を告げ、家に帰ったならば只今戻りましたと、挨拶をしなさい。すべて何事も先ず父母におうかがいをし、自分勝手なことをすることは許されません。
  • お父さんやお母さん、それから目上の方と話をする場合は立ちながらものを言ったり、立ったままでものを聞くことはいけません。また、いくら寒いからといって自分の手を懐の中に入れたり、暑いからといって扇を使ったり、衣服を脱いだり、衣服の裾をたぐり上げたり、そのほか汚れたものをお父さんやお母さんの目につく所に置くようなことをしてはいけません。
  • お父さんやお母さん、ならびに目上の人の方々から用事を言いつけられた時は、謹んでその用件を承り、そのことを怠らないでやりなさい。なお、自分を呼んでおられる時は、速やかに返事をしてかけつけなさい。どのようなことがあっても、その命令に背いたり、親を親とも思わないような返事をしてはいけません。
  • お父さんやお母さんが寒さを心配して。衣服の重ね着をおすすめになったら、自分では寒くないと思っても衣服を身につけなさい。なお、新たに衣服を用意して下さった時は、自分では気に入らないと思っても、謹んで頂きなさい。
  • お父さんやお母さんが常におられる畳の上には、ほんのちょっとしたことでも上がってはいけません。また、道の真ん中は偉い人の通るところですから、子供は道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや藩主や家老がお通りになる門はなおさらのことです。
  • 先生またはお父さんお母さんと付き合いがある人と途中で出会った時は、道の端に控えてお礼をしなさい。決して軽々しく行き先など聞いてはいけません。もし、一緒に歩かなければならない時は、後ろについて歩きなさい。
  • 他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいは、ふざけて高い所に登ったり、川や水の深い所で危険なことをして遊んではいけません。
  • すべて、先ず学ぶことから始めなさい。そして、学習に際しては姿勢を正し、素直な気持ちになり、相手を心から尊敬して教わりなさい。
  • 服装や姿かたちというものは、その人となりを示すものであるから、武士であるか、町人であるかがすぐにわかるように、武士は武士らしく衣服を整えなさい。決して他人から非難されるようなことのないようにしなさい。もちろん、どのように親しい間柄であっても、言葉遣いを崩してはいけません。自分より下の者や品のない人間と、同じように見られるようなことをしてはなりません。また、他の藩の人達に通じないような、下品な言葉遣いをしてはいけません。
  • 自分が人に贈り物をする時でも、父がよろしく申しておりました、と言い添え、また、贈り物を頂いた場合が、丁寧にお礼を述べながら父母もさぞかし喜びます、と言い添えるようにしなければなりません。すべてに対して父母をまず表に立てて、子が勝手に処理するのではないことを、相手にわかってもらえるようにしなければなりません。
  • もしも、お父さんやお母さんのお手伝いをする時は、少しでも力を出すのを惜しんではいけません。まめに働きなさい。
  • 身分の高い人や目上の人が来た時には、席を立って出迎え、帰る時にも見送りをしなければなりません。それにお客様の前では、身分の低い人はもとより、犬猫にいたるまで決して叱り飛ばしてはいけません。また、目上の人の前で、ものを吐いたり、しゃっくりやげっぷ、くしゃみやあくび、わき見、背伸び、物に寄りかかるなど、失礼な態度に見えるような仕草をしてはいけません。
  • 年上の人から何かを聞かれたならば、自分から先に答えないで、その場におられる方を見回して、どなたか適当な方がおいでになっていたら、その方に答えてもらいなさい。自分から先に、知ったかぶりをして答えてはいけません。
  • みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出かけるのを楽しみにしてはいけません。特に男は、年が若い頃は女の子と二人だけで遊びたい本能をおさえることは、なかなか難しいとされています。だからといってそのような遊びを経験し、癖ともなれば、それこそ一生を誤り、大変不名誉な人生を送ることになりかねません。だから、幼い頃から男と女の区別をしっかりし、女と遊ぶ話などしないことが大切なのです。あるいは、下品な言葉を発して周りの人を笑わせたり、軽はずみな行いをしてはいけません。なお、喧嘩は自分で我慢が出来ないから起こるものであって、何事も辛抱強く我慢して喧嘩をしないように、いつも心がけなさい。


また、会津の子供達には掟があった。「什(じゅう)の掟」である。

什の掟


一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ


二、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ


三、うそを言うてはなりませぬ


四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ


五、弱い者をいじめてはなりませぬ


六、戸外で物を食べてはなりませぬ


七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ


ならぬことはならぬものです。


『會津藩校日新館』 http://www.nisshinkan.jp/

会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。300に近い藩の中で肥前佐賀藩とともに藩士の教育水準が最も高く、さらに武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩と並んで江戸期を通じての二大強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序を磨き上げたその光沢の美しさに至ってはどの藩も会津におよばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすら思えるほどなのである。」

── 司馬遼太郎


会津の“義”は未だに息づいている。

あいづっこ宣言』(会津若松市) http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2007080601668/



幾人の 涙は石にそそぐとも その名は世に 朽ちじとぞ思ふ

なき跡を 慕うその世は隔たれど なお目の前の 心地こそすれ

── 松平容保



松平容保は朝敵にあらず (中公文庫)

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会津武士道 侍たちは何のために生きたのか

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明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675))

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