NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『修学の四標的』

久しぶりに、幸田露伴『努力論』(8)


幸田露伴は修学には四つの的が必要であると言う。
「正」、「大」、「精」、「深」


『修学の四標的』(抜粋)

  • 射を学ぶには的がなくてはならぬ、舟を行(や)るにも的がなくてはならぬ、路を取るにも的がなくてはならぬ。人の学を修め身を治むるにもまた的がなくてはならぬ。
  • 然らば即ち基礎教育の的とすべきは、どういうものであろうか。又其の教育を受くるものの的として、眼(まなこ)を着け心を注ぐべきは、何様(どう)いうところであるべきであろうか。
  • 如何なるかこれ四箇の標的。一に曰く、正なり。二に曰く、大なり。三に曰く、精なり。四に曰く、深なり。この四はこれ学を修め、身を立て、功を成し、徳に進まんとするものの、眼必ずこれに注ぎ、心必ずこれを念い、身必ずこれに殉(したが)わねばならぬところのものである。

「正」

  • 正とは中である。
  • 学をなすに当たって、人に勝らんことを欲するの情の強きは、悪きことでは無い。しかし人に勝らんことを欲するの情強きものはやゝもすれば中正を失うの傾きがある。人の知らざるを知り得、人の思わざるに思い到り、人の為さざるを為し了せんとする傾が生じて、知らず識らず中正公明のところを逸し、小経邪路に落在せんとするの状をなすに至るものである。力(つと)めてこれを避けて、自ら正しくせんとせざる時は、後に至って非常の損失を招く。僻書を読むのも、正を失って居るのである。奇説に従わんとするのも、正を失って居る。尋常普通の事は、都てこれを面白しとせずして、怪詭稀有の事のみを面白しとするのも、正を失って居るのである。
  • たまたま片々たる新聞雜誌等の一時の論、矯激の言等に動かされ、好んで傍門小径に走らんとするのは、甚だ危いことである。くれぐれも正を失わざらんとし、自ら正しくせんとするの念を抱いて学に従わねばならぬ。

「大」

  • 大は人皆これを好む。多く言うを須(もち)いぬ。今の人殊に大を好む。いよいよ多く言うを須いぬ。然れども世あるいは時に自ら小にして得たりとするものあり。憾(うら)むべし善良謹直の青年の一派に、特に自ら小にするもの多きを。
  • いやしくも学に従う以上は常に自ら自己を大くしようと思はねばならぬ
  • 修学の道最も自ら小にするを忌む、自尊自大も、また忌むべきこと勿論であるが、大ならんことを欲し、自ら大にすることを力(つと)めるは最も大切なことである。人学べば則ち漸く大、学ばざれば則ち永く小なのであるから、換言すれば学問は人をして大ならしむる所以だといってもよい位である。決して自ら劃つて小にしてはならぬ。自ら自己をば真に大ならしめんとして力めねばならぬ。
  • 大には広の意味を含んで居る。今や世界の知識は、相混淆し相流注して、一大盤渦を成して居るのである。この時に当たって、学を修むるものは、特に広大を期せねばならぬ。眼も大ならねばならぬ。胆も大ならねばならぬ。馬を万仭の峯頭に立てて、眼に八荒を見渡すの気概が無くてはならぬ。大千世界を見ること、掌中の菴羅果(あんらか)の如くすというほどの意気が無くてはならぬ。

「精」

  • 精の一語はこれに反対する粗の一語に対照して、明らかに解し知るべきである。卑俗の語のゾンザイというは精ならざるを指して言うので、精は即ちゾンザイならざるものをいうのである。物の緻密を欠き、琢磨を欠き、選択おろそかに、結構行き届かざる類は、即ち粗である。
  • これに反して物の実質の善く緻密にして、琢磨も十分に、選択も非ならず、結構も行届きて居る類は即ち精である。

「深」

  • 深は大とはしののおもむきが異なって居るが、これもまた修学の標的とせねばならぬものである。
  • ただ大なるを努めて、深きを勉めなければ、浅薄となる嫌(きらい)がある。ただ精なるを勉めて、深きを勉めなければ、渋滞拘泥のおそれがある。ただ正なるを努めて、深なるを勉めなければ、迂闊にして奇奥なるところ無きに至る。井を掘る能く深ければ、水を得ざること無く、学を做(な)す能く深ければ、功を得ざることは無い。学を做す偏狭固陋(へんきょうころう)なるも病であるが、学を做す博大にして浅薄なるも、また病である。ただ憾むべきはその大を勉むる人は、多くはその深きを得るに至らざることである。
  • しかし人力はもとより限有るものであり、学海は渺茫(びょうぼう)として、広闊無涯のものであるから、百般の学科、ことごとく能く深きに達するという訳に行かぬのは無論である。故に、深を標的とする場合は、自ら限られたる場合で無ければならぬ。一切の学科において、皆その学の深からんことを欲すれば、万能力を有せざる以上は、その人の神(しん)疲れ精竭きて、困悶斃死を免れざらんとするのが数理である。深はこの故にその専攻部面にのみこれを求むべきである。濫(みだ)りに深を求むれば、狂を発し病を得るに至るのである。
  • ただ人々天分に厚薄があり、資質に強弱は有るけれども、既に其の心を寄せ念を繋(か)くるところを定めた以上は、その深きを勉めなければ、井を鑿して水を得るに至らず、いたづらに空坎(くうかん)を為す訳である。はなはだ好ましからぬことであるといわなければならぬ。何処までも深く深く力め学ばねばならぬのである。
  • 要するに修学の道、そのやや普通学を了せんとするに際しては、深の一標に看到って、そして予め自ら選択するところが無ければならぬ。而して学問世界、事業世界のいづれに従うにしても、深の一字を眼中に置かねばならぬことは、いやしくもある事に従うものの皆忘れてはならぬところである。
  • 以上述べたところは何の奇もないことであるが、眼に正、大、精、深、この四標的を見て学に従わば、その人けだし大過なきを得んとは、予の確信して疑わぬところである。

『初刊自序』(1) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120704
『運命と人力と』(2) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120706
『自己の革新』(3) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120708
『惜福の説』(4) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120713
『分福の説』(5) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120717
『植福の説』(6) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120727
『努力の堆積』(7) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120811

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)


小説もたいくつなときには、読んでみるが、露伴という男は、四十歳くらいか。あいつなかなか学問もあって、今の小説家には珍しく物識りで、少しは深そうだ。聞けば、郡司大尉の兄だというが、兄弟ながらおもしろい男だ。

── 勝海舟『氷川清話』


氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫)