NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『努力の堆積』

今日の藻岩山頂から。
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久しぶりに、幸田露伴『努力論』(7)


『努力の堆積』(抜粋)

 努力は厭(いや)な事をも忍んで為し、苦しい思いにも堪えて、而して労に服し事に当たるという意味である。が、嗜好という場合には、苦しい事も打ち忘れ、厭うという感情も全く無くて、即ち意志と感情とが並行線的、もしくは同一線的に働いて居る場合をいうのである。努力はそれとやや違った意味を有し、意志と感情とが相忤(あいご)し戻って居る場合でも、意識の火を燃え立たせて、感情の水に負けぬように為し、そして熱して熱して已(や)まぬのをいうのである。

 人生の事というものは、座敷で道中双六をして、花の都に到達する如きものではない。真実(ほんとう)の旅行にして見れば、旅行を好むにして見ても、なおかつ風雪の悩みあり、峻坂嶮路(しゅんぱん)の艱(かん)あり、ある時は磯路に阻まれ、ある時は九折(つづらおり)の山道に、白雲を分け、青苔に滑るなど、種々なる艱苦(かんく)を忍ばねばならぬ。即ち其処に明らかに努力を要する。もし一路坦々砥(といし)の如く、しかも春風に吹かれ、良馬に跨って旅行するならば、努力はないようなものの、全部の旅行がそうばかりは行かぬ。如何に財に富み、地位において高くとも、天の時、地の状態などに因って、相当の困苦艱難に遭遇するのは、旅行の免れない処である。
 されば如何にこれを好む力が猛烈で、而してこれを為すの才能が卓越して居ても、徹頭徹尾、好適の感情を以て、ある事業を遂行する事は、殆ど人生の実際にはあり得ない。種々なる障礙(しょうがい)、あるいは蹉躓(さち)の伴う事は、やむを得ない事実である。而してそれを押し切って進むのはその人の努力に俟(ま)つより他はない。

 周公、孔子の如き聖人、ナポレオン、アレキサンドルの如き英雄、或はニユートン、コペルニカスの如き学者であろうとも、皆そのの努力によってその事業に光彩を添え、黽勉(びんべん)によって大成して居る事実は、ここに呶々するまでもないことである。まして才乏しく、徳低き者にありては、努力は唯一の味方であると断言してよいのである。

 文明の恩人の伝記を繙(ひもと)き見るに、誰か努力の痕を留めない者があろう。殊に各種の発明者、もしくは新設の唱道者、真理の発見者らは、皆この努力によってその一代の事業を築き上げて居るといわねばならぬ。

 また、よしんば英才の人が容易にある事を為し得ないとするも、その英才はいずこから来たか。これはその人の系統上の前代の人々の『努力の堆積』がその人の血液の中に宿って、而してその人が英才たるを得たのである。

 天才という言葉は、ややもすると努力によらずして得たる知識才能を指すが如く解釈されているのが、世俗の常になって居る。が、それは皮相の見たるを免れない。いわゆる天才なるものは、その系統上における先人の努力の堆積が然らしめた結果と見るのが至当である。

 盲人の指の感覚はその文字を読み得ざる紙幣に対しても、なお真贋を弁別し得るほどに鋭敏になって居る。しかしその感覚力は偶然に得たものではなく、その盲人の不便より生ずる欠陥を補わんとする努力の結果としてその指頭の神経細胞の配布を緻密ならしめたので、換言すれば単にその感覚が鋭敏なのではなく、解剖上における神経分布の細密を来し、而して後に鋭敏なる感覚を有するに至ったのである。

 吾人はややもすると努力せずしてある事を成さんとするが如き考えを持つが、それは間違いきった話で、努力よりほかに吾人の未来を善くするものはなく、努力より他に吾人の過去を美しくしたものはない。

 努力は即ち生活の充実である。努力は即ち各人自己の発展である。努力は即ち生の意義である。


『初刊自序』(1) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120704
『運命と人力と』(2) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120706
『自己の革新』(3) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120708
『惜福の説』(4) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120713
『分福の説』(5) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120717
『植福の説』(6) http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20120727


努力論 (岩波文庫)

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