NAKAMOTO PERSONAL

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「風評被害あれば『風評加害』あり」

「【正論】社会学者・加藤秀俊 風評被害あれば『風評加害』あり」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111101/dst11110103020000-n1.htm

 若い男性レポーターが小腰をかがめてコンビニの陳列棚の前にマイク片手に立って、「こちら、ごらんください」という。その棚はからっぽ。「おにぎりがずっと品切れです」とレポーター氏は興奮気味の声をはりあげる。たしか大震災翌日、3月12日の朝のワイドショーの一場面であった。


 ≪震災後の品不足とテレビ報道≫

 しばらくのあいだ、おなじような風景がくりかえされた。「納豆がありません」「ヨーグルトがなくなりました」「コメが不足しています」「水が売り切れです」といったふうに、連日のように生活物資不足の「ニュース」が報道された。それも、NHKをはじめ日本のすべての主要テレビ局がそろって朝から晩までこんな放送だけをくりかえしたのである。

 おやおや、またはじまったな、とわたしがおもったのは40年ほどまえのオイルショックでトイレットペーパーがなくなった事件をおぼえていたからである。あのときはひどかった。石油の輸入が途絶する。石油がなくなれば製造業が生産中止になる。製紙業も影響をうける。紙製品のなかで生活に直結するのはトイレットペーパーである。だから品不足になる。

 そういうもっともらしいおハナシをテレビが連日報道した。開店を待ち受けて行列をつくり、あのカサばる紙製品を怒号のなかで奪い合う主婦や老人。その現場中継を「こちらごらんください」といって上気した口調で報告していたのはテレビのレポーター諸氏、諸嬢であった。その熱気が全国に感染し、ついに「売り惜しみ買いだめ」禁止の法律までできた。同時代を生きてきた60歳以上のひとならおぼえているにちがいない。


 ≪オイルショック時と変わらず≫

 あのころの第一線レポーター各位はすでに定年退職なさっているのだろうが、子の世代にあたる諸君が40年たって、またおんなじことをやっているのである。いろんなものの品不足が大事件、それをひたすらご注進におよぶのがテレビという代物なのである。親子ほどの年齢差があって、レポーターの芸はいっこうにかわらない。

 もちろん、テレビ局の報道陣には正々堂々たる言い分がある。すなわち、スーパー、コンビニの店頭から納豆が消え、おにぎりがなくなったのは「事実」であって、そのありのままを映像で報道したのだ、とかれらは胸を張っていう。だが、ほんとうにそうか。どうもそのあたりマユツバものだ、とわたしはおもうようになってきた。なぜなら、かれらはスーパーを訪ねて納豆がないことを発見したのではなく、納豆のないスーパーをさがして「取材」していたかのようにみえるからである。

 特定の店で納豆が品切れであったことは「事実」だから、これを「ヤラセ」とはいわない。だが、わざわざ納豆のない店をえらぶというのはみずからに「ヤラセ」をさせているのである。いうなれば「自己ヤラセ」である。自己演出である。その自己演出がトイレットペーパー騒動の原因であった。当時のテレビはその「偏向」を反省して視聴者に詫びた。

 おにぎり、納豆のたぐいの品不足についての「自己ヤラセ」は2、3週間で終了したが、おなじような「報道」はつづいている。たとえば、汚染をおそれて消費者が新米を買わず、去年のコメを大量に買うようになった、という。それを深刻そうな表情で語る米穀商の主人の顔が大写しで画面にでる。だが、ほんとにそうか。ウソではあるまいが、偏向している。


 ≪汚染恐れ新米敬遠、はウソ?≫

 論より証拠、ネットをみるとことしのコメ、とりわけ銘柄米の値段は昨年より1割くらい高く、品不足だという。近所のスーパーをのぞいてみても、新米の売れ行きは好調のようである。古米、古々米を大量に買う神経症的な消費者もどこかにいるのだろうが、それは例外というものである。その例外的な「事実」を強調して、あたかもそれが世相であるかのごとくにいうのはペテンである。

 世に「風評被害」という。モノが売れない。旅行者が減少した。会社が倒産した。すべて「風評被害」だ、という。たしかにそうだろう。しかし、「被害者」がいるなら、かならず「加害者」がいるはずである。某県の農作物がアブナイといったたぐいの「風評」はべつだんふわふわと「風」がはこんできたものではない。はっきりいって、あの「風評」を「報道」したのはテレビという怪物である。水がなくなった、とレポーターがいうから大衆はあわてて水を買ったのである。テレビこそが「風評加害者」なのである。すくなくとも共同正犯なのである。

 それなのに、火元をどこかに吹いている「風」のセイにしてテレビは涼しい顔をしている。そして毎日アナウンサー、レポーター諸氏が「こちら、ごらんください」といって全国各地、ちょこちょこと走り回って「風評」のタネをバラまいている。それをみていると、半世紀ちかくたっているのに「テレビ報道」というのはちっとも進歩もせず、懲りもしないものだ、と嘆息してしまうのである。