「悪意の注目」
「【断 佐々木譲】悪意の注目」(産經新聞)
→ http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081114/acd0811140345001-n1.htm
その注目が、嘲(あざけ)りと言うか、からかいというか、要するに対象に対してまったく共感も好意もない動機に発する報道がある。
たとえば一世を風靡(ふうび)した音楽プロデューサーが詐欺事件で逮捕されたとなれば、マスメディア、とくにテレビは、その転落ぶりの落差をじつに視覚的にわかりやすく、視聴者に提供する。
容疑者の栄華の日々を証明する古いストック映像は、たぶんその日があることも見越して撮影されていたものだ。ただ、得意の絶頂にいるあいだ、ご当人たちは群がるメディアのその悪意には気がつかない。
リポーターたちの歯の浮くようなくすぐり文句も、おのれの輝きの証明と感じ取る。取材陣の「もっとやって」とあおる言葉にホイホイ乗って、愚行をいっそうエスカレートさせる。報道された中身を観ても、そこにこめられた皮肉や揶揄(やゆ)の調子は、取材されたご当人たちにはわからない。
対象は芸能人にかぎらない。とくに一般庶民がメディアに注目されたなら、そこにはメディアの悪意があると思っておいたほうがよいのではないか。
ところで、話題は全然変わる。アメリカ大統領選挙の報道がらみで、福井県小浜市にはメディアが大挙押しかけた。市は新大統領を名誉市民とするとか。ホワイトハウス前でフラダンスを披露するとも聞いた。いまあの町から発信される微笑(ほほえ)ましいニュースは、まるで清涼剤だ。あの町の行政関係者や市民の素朴さと無邪気さの報道に、私はすっかりなごんでいる。
ついこの前まで、あんなにチヤホヤしていたのに。
あっという間に掌を返し、嘲り笑うようなマスコミの報道。
それに乗り、ざまぁみろと言わんばかりに嘲笑する群集の心理。
ファンでも何でもないが、ほんと嫌気が差す。
テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを「茶の間の正義」と呼んでいる。眉ツバものの、うさん臭い正義のことである。
─ 山本夏彦(『何用あって月世界へ』)