NAKAMOTO PERSONAL

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怨親平等

「【断 富岡幸一郎】“無宗教”を考える」(産経新聞)

 8月15日には靖国神社を参拝した。筆者はキリスト信徒であり、神道の神社にお参りするのはおかしいと非難する者もあるが、国家のために殉難した人々を追悼し顕彰することは、国民として当然のことと考えている。靖国神社に自分の信仰する神はいないが、死者と生者が交流する場に立ち、祈りを捧(ささ)げることはむしろ自然なことであろう。実際、靖国の参拝者には仏教徒も多くいる。
 奇妙なのは、靖国神社にかわって「無宗教追悼施設」をつくるべきだという意見である。河野衆院議長もそう発言したというが、そもそも「無宗教」という言葉が引っかかる。政教分離は信教の自由を守るための手段であり、国家およびその機関と宗教的な行事を完全に分断すれば、かえって個人の信教の自由は脅かされる。
 昭和44年に自民党は靖国神社法案靖国神社を国家管理する法案)を国会に提出したが、議論の末に49年に参議院で廃案になっている。宮司を理事長として総理の任命とし、神道祭祀(さいし)を中止するなど宗教色をなくす内容であった。「無宗教」にすることで「国家管理」を前面に出すということでもある。昨今いわれている「無宗教追悼施設」とやらが、具体的にどういう方向を目指しているのか、十分に議論される必要がある。
 王を殺し、神を否定したフランス革命の嵐の中で、人間理性を“聖化”する非宗教の「最高存在の祭典」なるグロテスクな行事が横行したが、「国家」と「無宗教」を短絡的に結びつけた追悼施設など、ぞっとしない代物なのは想像がつく。

怨親平等google:怨親平等)という言葉がある。

日本には、敵も味方も、平等に弔う風習があった。元寇の際には元の戦死者をも弔ったという。また、島原の乱においては、異教徒であるキリスト教徒も弔った。

敵国であろうとも、異教徒であろうとも、平等に弔うのが日本の怨親平等である。

「慈悲の眼に憎しと思ふものあらじ 科(とが)ある者をなほもあはれめ」

― 『葉隠』