NAKAMOTO PERSONAL

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権力批判と差別

「【断 呉智英】権力批判と差別」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080711/acd0807110347001-n1.htm

 先月朝日新聞夕刊コラム「素粒子」が鳩山法相を「死に神」と呼んだ。就任から一年足らずで十三人の死刑執行を命じた法相を諷刺寸評したつもりらしい。しかし、法相は刑事訴訟法の規定を忠実に実行しただけであって、非難されるべきはむしろ同法を無視してきたこれまでの法相だろう。「全国犯罪被害者の会」も、我々に対する侮辱でもあると、抗議している。
 私は「素粒子」批判に同意するものだが、もう一歩踏み込んで考えてみたい。ここには、普段我々が意識しない権力というものと差別の関係が潜んでいるからだ。
 「素粒子」にも理がないわけでもない。これが権力者批判だという点だ。権力に携わる公人への批判には名誉毀損の例外条項もある。要するに、公人には批判を甘受する義務があり、国民やマスコミには公人を批判する権利がある。問題は「素粒子」が権力批判を至高の使命であると能天気に盲信していることだ。権力批判が差別と同居していることもあるのに。
 世の中には、自分が手を汚したくない嫌なことがある。そういうことを、実は権力や公的機関が代行している。例えば、徴税、汚物処理、軍事、死刑。聖書を読めば徴税人が民衆から疎まれていたことがわかるし、中世の警察官検非違使(けびいし)が被差別と権力の融合物だったことも近時明らかになっている。被差別部落の呼称の一つ「長吏」も本来、吏員の長(今で言えば課長、係長か)を意味した。無自覚、安易な権力批判は「俗情との結託」となり、差別さえ生む危険もある。(評論家)