NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

正義論

昨日の『産経抄』より。
 → http://sankei.jp.msn.com/life/environment/080307/env0803070334000-n1.htm

 米国にあるジョン万次郎ゆかりの家を日本の団体が買い取る計画が持ち上がっている。万次郎らを漂流先の孤島から救ったホイットフィールド船長の旧宅である。荒れ果てて売りに出されているのを取得し、日米の「友好記念館」とする予定だという。

 ▼この船長というのが、太っ腹で心の広い人物だったらしい。漂流民の中でも聡明(そうめい)な少年だった万次郎をかわいがり、自宅のあるマサチューセッツ州フェアヘーブンという町へ連れて帰った。ここで万次郎に英語や数学、航海術などを徹底して学ばせたのだ。

 ▼幕末のころである。この奇跡的ともいえるできごとが開国後の日米関係発展に役立ったことは言うまでもない。その意味で船長宅を記念館にする計画には心温まる気がする。だが忘れてならないのは、船長が指揮したジョン・ハウランド号が捕鯨船だったという事実だ。

 ▼万次郎たちを助けたのも捕鯨の途中だった。1回の航海で数百頭を捕獲していたといわれる。万次郎の生涯を描いた津本陽氏の『椿と花水木』には、港町であるフェアヘーブンの当時の華やぎが登場する。それも捕鯨によるところが大きかったのかもしれない。

 ▼当時の米国はまぎれもない捕鯨国だった。文芸評論家の佐伯彰一氏は本紙連載『地球日本史』の中で、ペリー艦隊が日本にきた目的として、捕鯨船の補給基地を確保することがあったとする見方を紹介している。日米関係樹立の陰に「捕鯨」もあったといえるのだ。

 ▼それから約160年後、米国の環境保護団体の船が日本の調査捕鯨を妨害している。公海上で薬品を投げつけるひどさである。いったい自国の捕鯨の歴史をどう考えているのだろう。「時代が変わった」だけで、済まされることではないはずだ。

「捕鯨抗議、また薬入りの瓶 日本側は『警告弾』7発」(中日新聞
 → http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008030802093574.html
「調査捕鯨妨害『許しがたい』と官房長官、対抗措置へ」(読売新聞)
 → http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080307-OYT1T00500.htm
「今度は在英日本大使館に侵入 シー・シェパードの活動家」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080306/erp0803062309008-n1.htm
「事務局長がシー・シェパードを非難 国際捕鯨委」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/world/america/080306/amr0803061947017-n1.htm



何度も書いているが、何度でも書く。


ぼくは争いを好まない。

徒党を組んで正義を主張するような輩を好まない。

正義を旗を振りかざす環境保護団体や平和運動家、宗教団体が好きではない。




山本夏彦の正義論。(『何用あって月世界へ』

  • 理解をさまたげるものの一つに、正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。
  • 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、正義と良心だけは売物にしてはいけないと思うのである。
  • 善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。
  • 俗に金のためなら何でもする、犬のまねしてワンと吠えよ命じられればワンと吠えると言うが、これはそれほど人は金を欲しがるというたとえ話で、いかにも人は金を欲するがそれ以上に正義を欲する。
  • 汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。

そして、福田恆存はかく語りき。

 自分だけの正義というものはなく、正義はつねに主張のうちにある。相手のため、他人のためと言ったこところで、どうしても人を強制することになる。強制それ自体が悪であるばかりではない。どんな正義もその半面には不正と必然悪をともなってをり、そこには人を益するものがあると同時に人を害するものがあるのだ。
 他人にたいする寛容というのは現代的な美徳であるが、昔は独りを慎む礼儀というものがあって、それは主張や表現を事とする文章の世界をも支配していた。たとへばエロティックな事柄を口にする場合、「デカメロン」でも「アラビアン・ナイト」でも、ユーモアやレトリックなしではすまされなかったのである。
 現代でも、そしてもっと低級な春本や猥談においてさえ、やはりそれなりに低級な笑いを、この場合は礼儀とまでは言わぬごまかしの煙幕に用いている。望むらくは、今日の正義の主張者が、正義論もまた猥談のごとく人前で大声に語りにくき恥ずべきものと心得られんことを。

 民主主義政治の原理は、自分が独裁者になりたくないという心理に基づいているのではなく、他人を独裁者にしたくないという心理に基づいているのである。一口に言えば、その根本には他人に対する軽蔑と不信と警戒心とがある。
 そうと気づいてもらえば、「正義の主張は犯罪と心得べし」という私の忠告は極く素直に受け入れられるだろう。愛の陰には色情があり、正義の陰には利己心がある。反省の篩(ふるい)にかければ、愛や正義の名に値するものはめったにないことになる。それがどういうわけか、今日の日本では、民主主義だけが篩(ふるい)の目を逃れ、ほとんど唯一の禁忌(タブー)にまで昇格してしまっている。敵も味方もそれを旗印にする。民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために民主主義を口実にする。そうかと思うと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言い、民主主義をもってそれを説伏(しゃくふく)しようとする。民主主義とはそれほど便利なものか。

―─ 福田恆存(『日本への遺言』)