NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

歎異抄

親鸞の“遺骨を示す墨書”が見つかったと思ったら、こんな記事。
 → http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20070918



歎異抄、思いっきり現代語訳」(朝日新聞)
 → http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200709220113.html

 親鸞の思想を伝える「歎異抄(たんにしょう)」は根強い人気を集める仏教書だ。数々の現代語訳があり、今月出たばかりの五木寛之氏の『私訳 歎異抄』(東京書籍)も12万部突破の勢い。一方、仏教界からも日常語での思い切った訳が発表された。読みやすさを目指すだけでなく、現代に通じるメッセージを問い直そうとする試みだ。それは社会の変容を強く意識したものとなっている。

    ◇

 今回、「仏教書という敷居をできるだけ下げた訳」を手がけたのは、真宗大谷派の研究交流機関である親鸞仏教センター(東京都文京区)。約10人で研究会をつくり、機関紙を通じて今春まで5年かけて発表した。批判覚悟の「試訳」という。

 歎異抄は自らのおごりや愚かさ、有限性を直視するよう呼びかける。そこに気づくならば、ありのままで受け入れてもらえる世界がある――。悩める現代人にも生きるヒントを与える書として、宗教者だけでなく野間宏吉本隆明両氏ら多くの文化人も試訳や独自の解釈を残している。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という有名な一節がある。「自力」で善をなそうとする者(善人)より、「他力」(阿弥陀(あみだ)のはたらき)にすべてを任せる煩悩具足の者(悪人)こそ救われると、逆説的に表現している。

 センター訳は、「善人でさえも、真実の自己になることができる。まして悪人はいうまでもないことである」。往生について、生きた人間の「宗教的な生まれ変わり」との意味合いを強調したのが特徴だ。さまざまな現代語訳=表=と比べると、表現の踏み込み方が際だつ。

 あくまでセンターによる独自の研究成果で、本山(東本願寺)が公式訳と認めたわけではない。浄土は死後の話ではなく、生きている今、救われていくことと理解する。親鸞が語ろうとした浄土とは「闇に包まれた私たちの心が明るくされた世界」ではないか、というのだ。

 ただ本当は、「往生」には死のニュアンスも込めたかったという。しかし、それにこだわりすぎると、現代では人々に届かない恐れがあると考え、あきらめた経緯がある。日常から死のイメージが遠ざけられがちな現代を意識してのことだ。

 ほかにも大胆な訳として「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」という一節を、「愛には、人間の思いを中心とした愛と人間の思いを超えた愛の違いがある」とした。「愛」はキリスト教のアガペーに通じる響きがあるため、相当な議論となった。しかし、このほうが今の日本ではさまざまにイメージを膨らませてもらえると判断した。

 センターの本多弘之所長(東京都台東区・本龍寺住職)は、「宗教感覚を伝える言葉が消えているからか、現代日本語には宗教的ニュアンスがうまく乗らない。それほどまでに日本語は今、深みを失っていると痛感した。だから逆に、例えば『愛』には『罪ある者を許す大きな慈悲』といったニュアンスを読み込んでもらいたい」。この試訳は書籍化の予定があり、議論の過程も明らかにされる。原典に触れる契機になれば、という。

 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)の僧侶で、自身も歎異抄の現代語訳を手がけている武蔵野大学大学院の山崎龍明教授(仏教学)は、「このような試みは、場合によっては批判を浴びて満身創痍(そうい)になるかもしれないが、尊い仕事だ」と宗派の違いを超えて評価する。

 「伝統的な解釈を否定するわけではないが、歎異抄は多面的な可能性を持っており、いろいろな問題提起があっていい。現代はいじめや自死の問題なども深刻。時代に迎合するという意味ではなく、『響く言葉』を発信することは宗教者に課せられた宿題だ」

    ◇

●「善人なおもて……」の訳例(敬称略、括弧内は書名)

「善人ですら極楽浄土へ行くことができる」――(哲学者・梅原猛梅原猛の「歎異抄」入門』)

「善人でさえ、アミダの浄土に生まれることができる」――(真宗教団連合編『歎異抄 現代を生きるこころ』)

「善人でさえも次生に真にして実なる西方浄土に往き生れることができる」――(東大名誉教授・佐藤正英『〈定本〉歎異抄』)

「善人(できのよい人)が阿弥陀仏の教えによって救われていくことができるのだから……」――(山崎龍明『歎異抄を語る』)

    ◇

歎異抄〉 鎌倉初期の僧で浄土真宗の宗祖である親鸞(1173〜1262)の没後、親鸞が説いたものとは異なった教えが広まっていくことを悲しんで書かれた書。「歎異」は異議を嘆くの意。著者は弟子の唯円(ゆいえん)というのが定説。

梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書)

梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書)

歎異抄 (講談社学術文庫)

歎異抄 (講談社学術文庫)

私訳 歎異抄

私訳 歎異抄