NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「積憤」

今日の朝日新聞の社説には憤りを感じる。
そして近頃は読売までも同調している。http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050603ig90.htm


靖国参拝 遺族におこたえしたい」(朝日新聞『社説』6/5)
 → http://www.asahi.com/paper/editorial20050605.html

 朝日新聞が小泉首相の靖国神社参拝に反対していることについて、遺族の方や読者の皆さんから手紙やご指摘をいただいている。その中には、次のような意見も少なくない。

 あの戦争で国のために命を落とした者を悼むことの、どこがいけないのか。首相が参拝するのは当然ではないか――。この問いかけについて、考えてみたい。

 兵士として戦地に赴いた夫や父、子どもが亡くなる。その死を悲しみ、追悼するのは当然の営みだ。平和な戦後の世に暮らす私たちにとっても、それを共有するのは大切なことだと思う。

 戦死した何百万もの人々の一人ひとりに家族があり、未来があった。それを思うと戦争の残酷さ、悲惨さを痛感させられる。靖国神社に参拝する遺族や国民の、肉親や友人らを悼む思いは自然な感情だろう。

ここまでの前置きは書いている通りの、ごく当たり前の自然な感情である。

 しかし、命を落とした人々を追悼し、その犠牲に敬意を払うことと、戦争自体の評価や戦争指導者の責任問題とを混同するのは誤りだ。上官の命令に従わざるを得なかった兵士らと、戦争を計画し、決断した軍幹部や政治家の責任とは区別する必要がある。

 靖国神社は78年、処刑された東条英機元首相らを含む14人のA級戦犯を合祀(ごうし)した。このことが戦死者の追悼の問題をいっそう複雑にしてしまった。

一般的な日本人としての感情、宗教観では、死者・犠牲者には等しく敬意を払うものである。当然のことながら命令を強要された兵士も、命令を下した上官も同じく等しい御霊である。
そして、軍幹部や政治家の責任問題は責任問題としてまた別の問題である。それは戦勝国が敗戦国を裁くという一方的な裁判ではあったが、A級戦犯というレッテルを受け入れ、処刑を受け入れ、殉じた。


「罪を憎んで人を憎まず」、という言葉がある。
「屍(しかばね)に鞭打つ」「死屍(しし)に鞭打つ」、という言葉がある。

 かつて陸海軍省に所管されていた靖国神社は、戦死者を悼むと同時に、戦死をほめたたえる、いわゆる顕彰の目的があった。戦意を高揚し、国民を戦争に動員するための役割を果たしてきた。

 戦後、宗教法人になったが、戦争の正当化という基本的なメッセージは変わらない。自衛のためにやむを得なかった戦争であり、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯は連合国に「ぬれぎぬ」を着せられたというのが神社の立場だ。

神社の立場が問題なのではない。
神社の立場によって我々の死者を悼む気持ちが変わるものなのか。
そもそも我々の一時的な感情によって死者の残した思いを捨て去ることが出来るのか。捨て去って良いものなのか。

 「朝日新聞は中国の反日に迎合しているのではないか」とのご指摘もいただいている。

 だが、中国が問題にしているのは一般兵士の追悼ではなく、戦争指導者の追悼である。A級戦犯が合祀された靖国神社を、日本国を代表する首相が参拝するのが許せないというのだ。

 侵略された被害国からのこの批判を、単純に「反日」と片づけるわけにはいかないと思う。

 小泉首相は、将来の平和を祈念して参拝するのだという。しかし、そのことが日中や日韓の間の平和を乱しているとすれば、果たして靖国に祭られた犠牲者たちが、それを喜べるだろうか。

宗教や民俗などは我々の生き方であり文化である。ここで言う「我々」は、この今この時代に生存している「我々」のみではなく、過去・未来の「我々」を含む日本人としての「我々」である。
過去の我々が生きて来たその生き方が文化である。現在の我々が生きてゆく、その生き方が文化である。それが未来の我々へと受け継がれてゆく。
中国には中国の文化がある。我々日本の文化と中国の文化は違う。当たり前の事である。
我々の文化が中国の文化と違うからという理由で中国の文化に合わせる必要はない。


 日本国民の幅広い層が納得でき、外国の賓客もためらうことなく表敬できる。そんな追悼の場所があれば、と願う。

 02年、当時の福田官房長官の私的諮問機関は、戦没者を追悼する場として新たな無宗教の国立施設の建立を提言した。そんな施設こそ、首相が日本国民を代表して訪れ、哀悼の誠をささげる場にふさわしい。いま、改めてそう考える。

そもそも無宗教の追悼施設などあり得るのか。死者を悼むことは宗教である。無宗教の抜け殻だけの追悼施設に誰が行くのか。
年に一度の儀礼的な追悼の為にどれだけの税金を使うつもりなのか。もし仮に建立したとして、数年もすれば中国も韓国も騒がなくなるだろう。その後、はたしてこの施設の存在意義は残るのだろうか。
所詮、中国や韓国の顔色を伺うためのその場しのぎの施設ではないのか。




坂口安吾に発禁となったエッセイ『特攻隊に捧ぐ』(新潮文庫『堕落論』収録)がある。
当時の風潮も今と少しも変わっていない。変わっていないということは進んでいないということで、そこに私は希望の火を見るのである。

 たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 彼等は自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落とされてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の名誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒を飲み、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向かって歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後若者が、酒を飲まずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を恐れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化け物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?
 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛しまもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 強要せられたる結果とは云え、凡人もまたかかる崇高な偉業を成就しうるということは大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於(お)いて、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのだろうか。

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)