NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「権力と戦う」?

東京新聞の望月衣塑子記者を、中国民主化運動に身を投じた石平氏が痛烈批判 『権力と戦うとは…彼女のやってるのは吐き気を催すうぬぼれだ!』」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/premium/news/170909/prm1709090030-n1.html

 かつて中国の民主化運動に身を投じた評論家の石平氏(55)が、菅義偉官房長官の定例記者会見で連続質問攻撃を仕掛けている東京新聞の望月衣塑子記者をツイッターで痛烈に批判した。

 石平氏は7日に以下のようなツイートを書き込んだ。

 「『それでも私は権力と戦う』という東京新聞望月記者の台詞を鼻で笑った。私は今まで、本物の独裁政権と戦った勇士を数多く見たが、彼女のやっていることは、何のリスクもない民主主義国家で意地悪質問で政府の記者会見を妨害するだけだ。そんなのを『権力と戦う』とは、吐き気を催すほどの自惚れだ!」

 日本に留学中の1989年、祖国・中国で天安門事件が勃発し、帰国をあきらめたという石平氏にとって望月氏の「権力との戦い」はとんだ茶番に映ったようだ。

 この投稿に対し、作家の百田尚樹氏(61)も即座に反応した。

 「全力で拡散したいツイートだ!! 石平さんの言葉は重い!現在もどれほど多くの偉大な人たちが権力と命懸けで闘っているか。

 週刊誌のデタラメ記事を参考に質問したり、政権批判をしたいがために北朝鮮の立場になって発言するような薄っぺらい女が『権力と戦う』など、ちゃんちゃらおかしい!!」

 翌8日に石平氏は再び望月氏に関するツイートを投稿した。

 「私のツイートは1日にして、一万二千以上のRTと一万六千以上の『いいね』をいただいた。東京新聞と望月記者の欺瞞と傲慢は多くの人々に嫌われていることの証拠だ。読者は新聞と新聞記者に期待しているのは事実を客観的に伝えることであって、『権力と戦う』という彼らの自己陶酔ではないのだ」

 石平氏のツイートには様々な声が寄せられた。

 「新聞記者は国民に選ばれてなるものでもないのに、国民の代弁者だと思っている時点で勘違いも甚だしい」「新聞離れがさらに激しくなり、販売店には残紙の山ができる」「中国や北朝鮮で権力と戦うと監禁されたり、殺されたりしますね」「『ペンの暴力』をふりかざすマスコミこそが権力者だ」--。

 一方の望月氏は7日、「防衛省が来年度予算でミサイル開発費として177億円を要望。研究の中身は敵基地攻撃につながるミサイル開発 菅官房長官防衛省は必要だから要望した』」という投稿を最後に自身のツイートはないが、リツイートは頻繁に繰り返している。

 望月氏に対し、産経新聞WEB編集チームは8月中にインタビュー取材を東京新聞編集局を通じて申し込んだが、「応じたくないと本人が言っています」という編集局の回答のまま、実現していない。

「【産経抄】執拗な東京新聞記者の質問は北朝鮮に手の内を明かせと迫っているかのようだ 9月2日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170902/clm1709020003-n1.html
東京新聞・望月衣塑子記者 私見や臆測織り交ぜ、的外れの質問を連発 『官房長官は出会い系バーで女の子の実態聞かないのか?』」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/politics/news/170914/plt1709140023-n1.html
東京新聞・望月衣塑子記者の『リーク』発言に産経新聞が抗議 『事実無根だ』 ネット上の誹謗中傷は『言論弾圧を助長している』のか?」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/premium/news/170914/prm1709140010-n1.html

東京新聞のやり方を「桐生悠々なら何と評するでしょうか」

「【産経抄東京新聞のやり方を『桐生悠々なら何と評するでしょうか』 9月12日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170912/clm1709120003-n1.html

 日曜の朝、起き抜けに東京新聞を開いたら、長文の社説の見出しが目に留まった。「桐生悠々と…」。日本人で初めて100メートルの「10秒の壁」を突破した桐生祥秀(よしひで)選手のことかと、寝ぼけ頭は勘違いをしてしまった。

 見出しは「防空演習」と続く。桐生悠々は、明治から昭和初期にかけて活躍した反骨のジャーナリストである。東京新聞を発行する中日新聞の前身の一つ、新愛知新聞でも健筆を振るった。信濃毎日新聞主筆だった昭和8年、軍部の怒りを買って新聞界を追われる。そのきっかけとなったのが、「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題した評論である。

 当時関東の上空では、陸軍の演習が行われ、多数の航空機が参加していた。悠々によれば、実際には役に立たない演習である。すべての敵機を撃ち落とすのは不可能だからだ。攻撃を免れた敵機が落とす爆弾が、木造家屋の多い東京を「一挙に焼土たらしめる」。悠々の指摘は、12年後の東京大空襲で現実のものとなる。

 東京新聞はここで、北朝鮮の弾道ミサイルに備えたJアラートと住民の避難訓練を持ち出して、読者に問いかける。防空演習を嗤った「桐生悠々なら何と評するでしょうか」。要するに、軍事的な脅威をあおるより、外交努力を尽くすことが先決というのだ。

 もっとも、評論の内容を知る人は、違和感を覚えるはずだ。敵機の来襲を探知して、日本の領土に達する前に迎え撃て。これが悠々の主張である。現在の状況にあてはめれば、ミサイル防衛の強化に他ならない。

 東京新聞の社説は、防衛力を高めよ、との評論の趣旨を無視している。都合のいいところだけを抜き出して、政権批判に結びつける。そんなやり方を「桐生悠々なら何と評するでしょうか」。


桐生悠々に曰く、
「水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。」

 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。

── 桐生悠々(『関東防空大演習を嗤う』)


「【社説】週のはじめに考える 桐生悠々と防空演習」(東京新聞
 → http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017091002000138.html

 北朝鮮が弾道ミサイル発射を繰り返し、国内では避難訓練も行われています。かつて関東上空での防空演習を嗤(わら)った桐生悠々なら何と評するでしょうか。
 きょう九月十日は明治後期から昭和初期にかけて健筆を振るった反骨のジャーナリスト、桐生悠々の命日です。太平洋戦争の開戦直前、一九四一(昭和十六)年に亡くなり、七十六年がたちます。
 本紙を発行する中日新聞社の前身の一つである新愛知新聞や、長野県の信濃毎日新聞などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた、われわれの大先輩です。


◆非現実の想定「嗤う」
 新愛知時代には、全国に広がった米騒動の責任を新聞に押し付けようとした寺内正毅(まさたけ)内閣を厳しく批判する社説の筆を執り、総辞職に追い込んだ気骨の新聞人です。
 その筆鋒(ひっぽう)は軍部にも向けられます。信毎時代の三三(同八)年八月十一日付の評論「関東防空大演習を嗤う」です。
 掲載の前々日から行われていた陸軍の防空演習は、敵機を東京上空で迎え撃つことを想定していました。悠々は、すべてを撃ち落とすことはできず、攻撃を免れた敵機が爆弾を投下し、木造家屋が多い東京を「一挙に焦土たらしめるだろう」と指摘します。
 「嗤う」との表現が刺激したのか、軍部の怒りや在郷軍人会の新聞不買運動を招き、悠々は信毎を追われますが、悠々の見立ての正しさは、その後、東京をはじめとする主要都市が焦土化した太平洋戦争の惨禍を見れば明らかです。
 悠々の評論の核心は、非現実的な想定は無意味なばかりか、有害ですらある、という点にあるのではないでしょうか。
 その観点から、国内の各所で行われつつある、北朝鮮の弾道ミサイル発射に備えた住民の避難訓練を見るとどうなるのか。


◆ミサイルは暴挙だが
 まず大前提は、北朝鮮が繰り返すミサイル発射や核実験は、日朝平壌宣言国連安保理決議などに違反し、アジア・太平洋地域の安全保障上、重大な脅威となる許し難い暴挙だということです。
 今、国連を主な舞台にして、北朝鮮に自制を促すさまざまな話し合いが続いています。日本を含む関係各国が「対話と圧力」を駆使して外交努力を惜しんではなりません。軍事的な対応は憎悪が憎悪を呼び、問題の根本的な解決にならないからです。
 その上で、北朝鮮のミサイル発射にどう備えるべきなのか。
 政府は日本に飛来する可能性があると判断すれば、全国瞬時警報システム(Jアラート)を使って避難を呼び掛けます。八月二十九日早朝の場合、発射から四分後に北海道から関東信越までの十二道県に警報を出しました。
 とはいえ、日本の領域内に着弾する場合、発射から数分しかありません。政府は、屋外にいる場合は近くの頑丈な建物や地下への避難を呼び掛けていますが、そうしたものが身近にない地方の都市や町村では、短時間では避難のしようがないのが現実です。
 八月の発射でも「どこに逃げるか、どのように身を隠せばいいか。どうしていいか分からない」との声が多く出ています。
 住民の避難訓練も同様です。ミサイル発射を想定した国と自治体による合同の避難訓練が今年三月以降、すでに全国の十四カ所で行われていますが、専門家からは訓練の想定や有効性を疑問視する声が出ています。
 北朝鮮は、在日米軍基地を攻撃目標にしていることを公言していますし、稼働中であるか否かを問わず、原発にミサイルが着弾すれば、放射線被害は甚大です。
 しかし、政府は米軍基地や原発、標的となる可能性の高い大都市へのミサイル着弾を想定した住民の避難訓練を行っているわけではありません。有効な避難場所とされる地下シェルターも、ほとんど整備されていないのが現状です。
 訓練の想定が現実から遊離するなら、悠々は防空大演習と同様、論難するのではないでしょうか。


原発稼働なぜ止めぬ
 戦力不保持の憲法九条改正を政治目標に掲げる安倍晋三首相の政権です。軍備増強と改憲の世論を盛り上げるために、北朝鮮の脅威をことさらあおるようなことがあっては、断じてなりません。
 国民の命と暮らしを守るのは政府の役目です。軍事的な脅威をあおるよりも、ミサイル発射や核実験をやめさせるよう外交努力を尽くすのが先決のはずです。そもそもミサイルが現実の脅威なら、なぜ原発を直ちに停止し、原発ゼロに政策転換しないのでしょう。
 万が一の事態に備える心構えは必要だとしても、政府の言い分をうのみにせず、自ら考えて行動しなければならない。悠々の残した数々の言説は、今を生きる私たちに呼び掛けているようです。

帝国主義が生んだ「人種思想」

奥三角山、山頂より。




NHK「100分 de 名著『全体主義の起原』ハンナ・アーレント
今晩は2回目。

「第2回 帝国主義が生んだ『人種思想』」
 → http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/69_arendt/index.html#box02

【放送時間】
2017年9月11日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2017年9月13日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2017年9月13日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
仲正昌樹金沢大学教授)
【朗読】
田中美里(俳優)
【語り】
徳田 章(元NHKアナウンサー)
19世紀末のヨーロッパでは原材料と市場を求めて植民地を争奪する「帝国主義」が猛威をふるっていた。西欧人たちは自分たちとは全く異なる現地人と出会うことで、彼らを未開な野蛮人とみなし差別する「人種主義」が生まれる。一方、植民地争奪戦に乗り遅れたドイツやロシアは、自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」を展開する中で、中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族的ナショナリズム」を生み出す。第ニ回は、国民国家を解体へと向かわせ、やがて全体主義にも継承されていく「人種主義」「民族的ナショナリズム」という二つの潮流がどのように生まれたかを明らかにしていく。

戦時下と裏返しの「平和主義者」

「【正論・戦後72年に思う】戦時下と裏返しの「平和主義者」 新潟県立大学教授・袴田茂樹」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170823/clm1708230006-n1.html

 毎年8月になると、72年前の敗戦との関連でメディアには反戦・平和主義、核廃絶論、戦争体験談などが溢(あふ)れる。これらを見て、ある疑問を抱く。それは、戦後世代は満州事変(1931年)から敗戦(45年)に至る戦時中の雰囲気を果たしてリアルに理解しているのか。そして今は戦時中とは別の認識形態や自立的思考を本当に確立しているのか、という疑問だ。

 実際にはわれわれも、戦時中とは裏返しの形だが、同様の画一思考に陥っているのではないか。


 ≪本当に時勢に不本意だったか≫

 戦時下のわが国を描く近年の朝ドラなどの定番は、町内会(隣組)、婦人会などの翼賛組織の先頭に立って、軍部のお先棒を担いで国民を戦争に総動員する「悪役」と、彼らに従わざるを得ない「被害者」の一般国民-という図式だ。そして知識人たちも不本意ながら時勢に従うといった図だ。

 しかし実際には国家組織、教育やメディアが総力で推進した国と国の“試合”は、オリンピックやサッカー・ワールドカップなどとは天地の差の強力な“麻薬的力”を有していた。それがアジア解放の聖戦とされ、その勝敗に国民の生命や国運が懸かっていたからだ。具体例を挙げよう。

 日露戦争中に「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」と歌い反戦歌人とされている与謝野晶子も、その後「水軍の大尉となりて、わが四郎、み軍(いくさ)に行く、たけく戦へ」と歌った。かつて治安警察に反対したあの市川房枝も、翼賛体制に賛成して大日本言論報国会理事となり、戦時下の隣組における主婦の役割の重要性を説いた。

 社会派ではなく純芸術派の佐藤春夫も、愛するわが子を「大君がため、国のため、ささげまつらん」と戦地に送り出した。耽美(たんび)派詩人北原白秋も、「紀元二千六百年頌」で「ああ、我が民族の清明心…武勇、風雅、廉潔の諸徳…大義の国日本…大政翼賛の大行進を…行けよ皇国の盛大へ向かって、世界の新秩序へ向かって…」と愛国大行進を歌い上げた。


 ≪戦争の即物性に酔った文人たち≫

 42年に創設された日本文学報国会は会員約4000人で、非会員の文人は稀(まれ)だった。役員は徳富蘇峰(会長)、久米正雄菊池寛折口信夫佐藤春夫柳田國男…ら錚々(そうそう)たる文人だ。岩波茂雄も賛助会員、顧問には横山大観や藤山愛一郎、正力松太郎も名を連ねた。女性の役員や会員には、壺井栄林芙美子宮本百合子ら左翼(元左翼)作家もいる。

 日本精神高揚のために41年に大政翼賛会文化部によって発行された『詩歌翼賛』には、北原白秋佐藤春夫はもちろん、高村光太郎島崎藤村三好達治らの愛国詩が掲載された。


 大政翼賛会陸軍省海軍省などの後援で42年に開催された大東亜文学者大会には、大会参与として前述の島崎、柳田、折口らの他、正宗白鳥志賀直哉谷崎潤一郎川端康成…らも加わった。

 日米開戦と当初の日本軍連勝に国民は熱狂した。米国や欧州諸国との間の絶え間ない緊張や国内政治紛争の鬱感の中で、戦争の勝敗の即物性に「すがすがしさ」を感じた知識人も少なくなかった。

 これら具体例を挙げたのは、彼らを批判するためではない。当然、生活ゆえ時勢に従った者や社交上の付き合いもあり、谷崎の『細雪』は軍部が発禁にしたが、自衛策でもあったろう。私が強調したいことは、2つである。


 ≪画一思考に陥っていないか≫

 1つは、戦時中は文化人や知識人も含め、国民の大部分が熱病のように、時代の“麻薬的雰囲気”に酔っていたこと。第2は、その知識人たちの多くが、戦後は平和・反戦主義者、民主主義者に転向して戦時中の自己を封印し、また教育も出版・メディアもそれに率先して加担したということだ。

 例えば与謝野晶子については反戦歌のみ取り上げ、学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』も、確かに感動的だが、それら手記は戦後政治に合わせて選択されている。ある意味で、明治以後の歴史全体が封印されたとも言える。

 これは新たな言論統制であり、戦時中とは裏返しの画一的な国民意識が今日生まれているのではないか。その結果、「平和を守る最善の手段は、戦争に備えること」といった国際常識も迂闊(うかつ)には言えない状況になったと言えないか。

 私は大学の講義の初めに、毎年次のことを述べる。誰もが自分自身の考えや価値観を持っていると信じているが、それらは大抵、その時代・社会の常識や通念にすぎない。それに囚(とら)われない「自己の考え」を有している者は、100人に1人どころか1000人に1人もいないのではないか、と。

 その1人として私が思い出すのは、「暗黒日記」の清沢洌(きよし)や「一匹と九十九匹と」の福田恆存らである。

 今の平和・反戦主義者の大部分は、状況次第で戦時中の国民と同じになるだろう。


平和を口にする者が本当に平和を愛してゐるのか!?
ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族の自覚を持つてゐるのか!?

 平和といふ名の美しい花を咲かせた日本の薔薇造りは、そのヒューマニズムといふ根がエゴイズムといふ虫にやられてゐる事に、果して気附いてゐるかどうか。そのけちくさい、小(ち)つぽけな個人的エゴイズムに目を塞ぎ、今度は同じヒューマニズムの台木にナショナリズムを接木して、平和と二種咲き分けの妙技を発揮しようとしてゐるのではないか。平和を口にする者が本当に平和を愛してゐるのか、ただ戦争を恐れてゐるだけなのではないか。ただ戦争を恐れるだけの消極的な精神が、平和を文化の創造と維持との原動力と為し得るだらうか。ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族の自覚を持つてゐるのか、ただ個人的な消費生活の水準を落されたくないといふだけの事ではないのか。ただそれだけの消極的な精神が、文化共同体の源泉としてのナショナリズムに結集し得るだらうか。

── 福田恆存(『知識人の政治的言動』)

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

ゲバラは本当に英雄だったのか?

チェ・ゲバラは英雄じゃなかった? 終焉の地ボリビアで見た真実 騒いでいるのは外国人だけだった」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52696

テンペスト』『シャングリ・ラ』『風車祭(カジマヤー)』の作家・池上永一が20年の歳月をかけて完成させた新作『ヒストリア』が話題になっている。本作は第二次世界大戦中、沖縄戦で家族すべてを失い、沖縄からボリビアに渡った女性の波乱の一代記だ。
刊行を記念して、ボリビア取材記を特別に寄稿していただいた。ゲバラの足跡を追いかけていった池上氏が、現地で思い知った「英雄」の意外な真実とは?


南米ボリビアゲバラの足跡を追う
私がボリビアを訪れたのは2015年の5月のことで、南半球ではスールと呼ばれる季節風が吹き始める秋の終わりだった。

今回の作品『ヒストリア』は時代背景が冷戦期のボリビアである。そこで当時ボリビアにいた歴史的人物を探っているうちに、チェ・ゲバラの存在にぶちあたった。

一般にチェ・ゲバラは時代のカリスマとして日本人に受け止められている。それは彼の見目麗しい姿と、ゲリラに似つかわしくない医師という経歴、そしてキューバ革命を成功させたカストロの腹心というイメージからだ。そしてもうひとつ、志半ばにして夭折した悲劇性というのも忘れてはならない。チェ・ゲバラ坂本龍馬を彷彿させるスター性がある。

まずボリビアという国を簡単に説明しておこう。

ボリビア南米大陸のほぼ中央にある内陸国で、5ヵ国と国境を接する。隣国ブラジルがあまりにも巨大なのでボリビアは小さいと錯覚してしまうが、実は日本の3倍の面積がある。アンデス山脈をイメージする人がいるかもしれないが、それは半分だけ正しい。ボリビアは日本列島とほぼ同じ面積の低地もあるからだ。

ボリビアアンデス山脈の6000メートル級の高山と、標高400メートル程度の広大な低地のふたつの顔を持つ。そのうちボリビアの歴史の主体となるのは、ラパスやスクレなど政治的な都市を持つ、高山側にある。

チェ・ゲバラの足跡を追うには、低地のサンタクルス市からアクセスする。サンタクルス市はボリビア第二の都市とされているが、事実上ボリビア最大の商業都市で、ボリビア経済のほとんどがサンタクルス市の活力に依るものである。

ボリビアアンデスのイメージを持っていた私は、サンタクルス市で認識を覆された。見渡す限りの地平線の国。車のアクセルベタ踏みで一直線の道を飛ばしても、何時間も景色が変わらない。むしろ太陽の動きの方が速く感じてしまう。

そのサンタクルス市からチェ・ゲバラの遺体が運ばれたバジェ・グランデへと向かう。さきほどの広大な平原とは真逆に西側へとハンドルを切れば、幅750キロメートルに亘るアンデス山脈の麓へと至る。麓はアンボロ国立公園と呼ばれている熱帯雨林だ。

バジェ・グランデへと至る道のりを簡単に説明すると、アスファルトとガードレールのない日光のいろは坂だと想像してほしい。山肌のいたるところに土砂崩れの跡があり、後続車も対向車もない道をひたすらくねくねと走っていく。

標高1000メートルを越えたあたりから、視界10メートルほどの濃霧に覆われる。雲のなかに突入したのだ。だが不思議と恐怖感はない。うっかり道を外れて滑落してもおかしくない状況なのだが、途方もない光景に私がすっかり畏怖してしまっているからだ。まるで冥界へと続くような曖昧模糊とした視界は、三途の川を渡っている気分である。


驚きと落胆の連続

さて、バジェ・グランデへもっとも近い道のりを選んだつもりでも、半日がかりである。標高2000メートルを超える町は、カーディガン一枚では肌寒かった。

ラテン・アメリカの町は規模の大小に拘わらず、都市設計は共通している。まず中心地に広場を作る。次に広場を囲うように教会と役所を配置する。広場から離れるほど貧しい地区になり、意外な発見や洒落た店など皆無になる。これは南米のすべての町で普遍的に通用するので、覚えておくと町歩きのときに役立つだろう。

当時のバジェ・グランデの町は、ある男の写真で埋め尽くされていた。てっきり大統領かと思ったが違う。高齢の白人男性の名はフリオ・テラサス・サンドバル。ボリビア初の枢機卿である。バジェ・グランデ市民は地元から輩出した枢機卿を熱烈に敬愛していた。

赤化革命の戦士の足跡を追いかけて辿り着いた町が、カトリック教徒の拠点であったことに少々面食らってしまった。私はもっと過激な思想家や反政府活動家がいると思っていたのに。しかし私は徐々に彼らの信仰ぶりに圧倒されていくことになる。

夜、ぶらりと町を散歩していた時のことだ。人の流れが一方向に連なっている光景を見つけた。広場のある中心部からやや外れの路地だ。不思議に思って跡を尾けていくと、屋根越しに十字架のついた鐘楼が見えた。彼らは夜のミサに向かう行列だったのだ。

教会内は沈黙の圧力が熱に変わっているように感じられた。私が探していたチェ・ゲバラの痕跡とは完全に断絶した人々である。少なくともこの町には反政府ゲリラや政治活動家が息づく隙間がない。

それでも私はチェ・ゲバラの痕跡を探すことにした。しかし、これが落胆の連続になるのである。

チェ・ゲバラの遺体はバジェ・グランデの病院に運ばれた。それは現在使用されていない病院裏の遺体置場にある。敢えて安置所とは書かない。なぜならばコンクリート製の流し台は、世界各国から来たゲバラファンが書きなぐった落書きで覆われていたからだ。

スペイン語がよくわからない私でも、それらが質のよくない文言であることはわかった。簡単に言うなら暴走族の『夜露死苦』という落書きに近い。まさか時代の英雄がこんな粗末な扱いを受けているとは想像もしていなかった。

次に広場に面した博物館にチェ・ゲバラの遺品が展示されていると聞き、訪れることにした。確かにチェ・ゲバラの遺品や写真が展示されている。しかしそれらは日本のゲバラ関連の書籍でも見ることができる写真の数々で、ここにしかない決定的な遺物はなかった。

それよりもびっくりしたのが、チェ・ゲバラの遺品集から数メートル歩いただけで、旧石器時代の鏃や頭蓋骨の陳列に様変わりすることだ。まるで落丁した本のように前後の脈絡がわからなくなって軽い目眩を覚えた。

それでもここまで来たからには、英雄の英雄たる所以を見つけたいと思うのが人情であろう。なにせ飛行機でトランジット3回、合計30時間もかけてボリビアに来たのだ。成果なくして帰るなんてありえないことだ。


ゲバラは本当に英雄だったのか?

そこでチェ・ゲバラが処刑されたイゲラ村に行くことにした。その村はさらに険しい山道を車で移動すること3時間の場所にある。

事前に日本で集めた参考資料のなかにソダーバーグ監督の『チェ』があり、私はこれを観ていた。確かラストシーンは砂っぽい一本道に家屋が並んでいる村だ。それがイゲラ村ということなのだろう。

イゲラ村はアンデスの尾根沿いにある極めて小さな村だ。それは日本の自治体の基準でいうと「廃村」と断言してよいレベルの村である。山頂には覚えているだけで数棟の家屋があり、そのうちの大きな建物の二つは学校とゲバラ資料館だ。校庭には洗濯物が干されていて、出会った人は老婆とその孫と犬だけである。彼らは校庭脇の階段にぼうっと座っているだけだった。

そして何より衝撃的だったのが、なけなしの駐車場前に設えられたゲバラの胸像である。高校の文化祭レベルの微妙にパースの狂った胸像は、見る者を不安にさせる。彩色はポスターカラー、材質はたぶん石膏だ。2、3日の催し物で撤収される品質のものでしかない。聖地巡礼のつもりで来た私は、いきなり背後から膝かっくんされたように崩れ落ちた。

資料館は所謂、田舎の小学校の教室である。そこに児童が座る小さな木製の椅子があり、このおもちゃのような椅子に座らされてゲバラは簡易裁判にかけられた後、処刑されたという。厳かさもドラマ性も皆無な最期だと冷淡に告げられていた。

ソダーバーグも当然このイゲラ村をロケハンしたはずだ。そしてあまりにお粗末な最期に頭を抱えたことだろう。イゲラ村は極端に狭いために映画的な画角が取れないのだ。たとえるなら富士山の山頂でラストシーンを撮るようなものだ。

果たして日本で愛されているチェ・ゲバラは一体何者なのだろう? 彼は本当に英雄だったのか? 本当にボリビア人を解放するために闘ったのか? それが民衆の願いだったのか? 納得できる言葉はひとつしかない。

即ち、ボリビア人はチェ・ゲバラなんてどうでもいいと思っている。

そう考えるといろんなことが腑に落ちた。

博物館のなかにいたゲバラは鏃や頭蓋骨と共に陳列されていた。ボリビアにとって彼は通りすがりの異邦人であり、現代ボリビア人と断絶した歴史の遺物にすぎない。世界的な著名人チェ・ゲバラが英雄でなければ、一体誰がボリビアの英雄だというのだ?

ところでボリビアは2005年から社会主義の国になった。しかし私たちの想像する社会主義とはかなり違う。どちらかというと民族主義のことであり、反米主義のことである。反米とは反グローバリズムと言い換えることができる。

では現大統領エボ・モラレスは英雄かというと、違う。彼はベネズエラチャベス元大統領の模倣者で、低地のサンタクルス市では人気がない。彼は高山側の貧困対策のために、サンタクルス市の富を奪っている、と認識されている。

実はボリビア人にとって真の英雄とは、フリオ・テラサス・サンドバル枢機卿である。当時、2ヵ月後にローマ法王が来訪するのをオリンピック級のイベントとして心待ちにしていた。信仰熱心な我らのなかから神が枢機卿を選び出し、ローマ法王の御眼鏡に適ったことが誇らしいのだ。

イゲラ村の資料館で芳名帳を見つけた私はサインしがてら、誰がここを訪れたのか興味を持った。芳名帳を全ページ丁寧に漁ると、興味深いことがわかった。

書かれた住所は、ゲバラの故郷アルゼンチンがもっとも多く、続いて近隣の南米諸国が並ぶ。映画の影響からかアメリカ人の名も多く連ねられていた。意外にも多かったのが日本人で、私もそのなかのひとりである。地球の裏側からの立地を鑑みると芳名帳の上位10ヵ国に入っているのは、意外かもしれない。そして不思議なことにボリビア人の名前はほとんど見つからなかった。

──ゲバラで騒いでいるのは外国人だけ。

アンデスの冷たい季節風が、空耳のように呟きながら私の側を通り過ぎていった。

ヒストリア

ヒストリア