渡部昇一氏を偲んで
「渡部昇一氏を偲んで(第1回)」(日刊SPA!PLUS)
→ https://nikkan-spa.jp/plus/1320610
当社・育鵬社では、渡部氏の著作を数多く刊行してきた経緯があり、在りし日の渡部氏を偲び、その思い出を著作等とともに、今後数回にわけて綴ってみたい。
● 渡部昇一語録の決定版=『歴史通は人間通』
渡部昇一氏の膨大な著作の中から、その歴史観と人間観のエッセンスとなる言葉を選んで編んだ『歴史通は人間通』(育鵬社)は、氏の名言集(語録)としては数少ない書である。「渡部昇一という人は、“要するに”どんなことを言っていた人なのか」ということを知る上では、役立つ一冊に違いない。「『人間』のことを英語では多少ふざけてmortal(モータル)と言うことがある。
この単語の語源はラテン語mors(モルス=死)から来ている。だからmortalは『死すべき者』というのが原義である。しかり、人間はみな『死すべきもの』である。
そんなことはわかっている。しかし死ぬまでの時間を、延長したり、また延長した時間をよりよく生きる工夫があるのではないか。(中略)
そういうことに比較的若い頃から関心を持っていた人と、そうでない人とでは、還暦前後からの老いの緩急の度合いや、老いの質が違ってくるのではないか(後略)」
(『歴史通は人間通』育鵬社、200~201ページ)
● 毎日少しずつの小さな実践
氏の実践の一例が真向法だ。いま流行の「ベターッと開脚」である。氏はそれこそ還暦に近い頃から、硬くなっていた股関節を柔らかくするために、「毎日少しずつ」のストレッチと開脚訓練で、ついに「ベターッと開脚」に到達されたのである。氏が70歳を過ぎた頃、健康法のお話をうかがっていた際、一度その勇姿を見せてくださったことがある。まさに「ベターッと開脚」である。思わず見ほれてその姿を写真に撮らせていただいた。氏は言葉にはされなかったのだが、「どうだ。すごいだろう」という無言の言葉が、その微笑みから伝わってきたものである。
すると、「君もやってみなさい」と、思いがけない声がかかり、命令に逆らうことなど考えられず、不様な姿をさらすと、「それは死後硬直ですな…」と失笑され、思わず爆笑したものだ。
氏の「毎日少しずつ」には、他にラテン語の辞書の単語の丸暗記というのもあった。これは80歳の頃に、記憶力の衰えを防ぐため、車での移動の際、その車中でなさっていたのだが、ついには一冊丸ごとを丸暗記されたのだ。記憶力は衰えるどころかますます冴えていった。
氏の「毎日少しずつ」は、その他にもたくさんのことがあった。その中の一つに、様々な立場の方々から寄せられるお便りへの返信があったと聞く。
どんなお便りに対しても、真摯に向き合い、誠実に的確な返書を送られたという。
実際に、当社から著作の増刷を知らせるお便りを見本とともにお送りすると、数日後には必ず、増刷に対する感謝の言葉が添えられたお葉書が届いた。直筆の署名と宛名書きの入ったものである。
こうした小さな実践を大事にされていた。
● 「どんなときも明朗な人」
4月19日、春の陽光が降りそそぎ、八重桜が満開に咲き誇るなか、葬儀ミサ・告別式が執り行われ、その死を惜しむご親族などに見送られて天国へと帰っていかれた。「父は『保守論壇の重鎮』とか『知の巨人』などと呼ばれていましたが、私たち家族にとっては、無類の愛妻家であり、並外れた子煩悩でした」
「父はどんなことも前向きにとらえ、どんなときも『明朗』な人でした。私たちはそれを受け継いで生きていこうと思っています」
渡部氏の長男でチェリストとして活躍されている玄一氏の告別式での言葉(要旨)だった。
(渡部玄一著『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』・海竜社刊は、氏の家庭での一面を知る上でたいへん興味深い。)
渡部昇一氏は、その博識と見識から多くの人々の尊敬を集める一方で、その温かい人柄ゆえに敬愛されていた(次号に続く)。
- 作者: 渡部昇一
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2013/10/12
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- 作者: 渡部玄一
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追悼・渡部昇一先生
「【追悼・渡部昇一さん】言論界の巨大な星 深い教養が生んだ正義の人 杏林大学名誉教授・田久保忠衛」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/170419/clm1704190004-n1.html
初めて渡部昇一さんとお会いしたのは40年ほど前、ラジオの番組でした。当時、渡部さんはベストセラー『知的生活の方法』で知られる上智大の若手教授。私は時事通信の記者で、2人で対談をやりましてね。第一印象は、こんなスマートな人がいるのか、という驚きでした。体もスマートなら言うことも非常にシャープで、背景には万巻の読書があるのだろうと思わされた。以来40年、「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)など、渡部さんがホスト役を務めるさまざまな番組に、ずいぶん呼んでいただきました。
最後にお会いしたのは、先月末のことでした。あまりに痩せられていたので、びっくりしましたね。声も非常に細かった。その際の渡部さんの主たる関心は、米国トランプ政権で国際状況がどう変わり、日本はどうしたらいいか、ということでした。最後まで日本の行く末を考えていた。
渡部さんの一貫した関心は、日本の現状に対する憂いでした。国家の基本問題である外交、防衛、教育がなっていない、と。そういった国体の問題、つまり皇室の問題にも関わる憲法について、これを早く改正しなければ、と終始一貫説いていた。その点で安倍晋三首相を支持し、書斎派の知識人でありながら実際の運動にも一生懸命に携わった。勇気あるまれな人だった。いまは保守の流れが大きくなっていますが、そのずっと前から一人で戦いを続けてきた渡部さんは、まさしく保守の中心的存在でした。その源流が大きな流れとなってこれから前に進んでいけば、渡部さんも本望でしょう。
直接接して感じた人柄は、人事やお金など小事への執着がない。天下国家ばかりを論じていた。あまり他人の悪口を言う人ではありませんでしたが、人の倍も3倍もいろんなものを読んでいますから、同じ保守派に対しても批判するときは「あのときはあの雑誌にこういうことを書いていた」と痛烈にやっつける。
著作の中で特筆すべきは、やはり歴史ものですね。学問の世界から、一般の人が読みやすいものに変えた。これで国民がどれだけ助かったか。皇室の問題から学界で議論されている細かなテーマまで、あの人らしい柔らかい表現で、中学生でも分かる本にした。これは巨大な仕事です。
いろんな分野でタブーなき言論を行った勇気ある知識人であり、しかもその発言は正義感と深い教養に裏打ちされていた。渡部さんは日本の言論界にとって、巨大な星のような存在でした。(談)
◇
評論家・英語学者で第1回正論大賞を受賞した渡部昇一さんは17日、心不全のため死去。86歳だった。
◇
【プロフィル】田久保忠衛
たくぼ・ただえ 昭和8年、千葉県生まれ。早稲田大学法学部卒。博士(法学)。時事通信社を経て、杏林大学教授。専門はアメリカ外交、国際関係論。第12回正論大賞受賞。著書に『戦略家ニクソン』(中公新書)など。
「【産経抄】95歳までの知的生活 4月19日」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/170419/clm1704190003-n1.html
渡部昇一さんのベストセラー『知的生活の方法』を読んだのは、大学生時代である。読書の技術から、カードの使い方やワインの飲み方まで、大いに「知的」な刺激を受けた。ただ、実践には至らなかったのが、40年たった今でも悔やまれる。
渡部さんによれば、「知的生活」の原点は、旧制中学での恩師との出会いだった。佐藤先生の英語の授業がなかったら、英語学を一生の仕事にすることはなかったという。先生の自宅を訪ねると、英語の本はもちろん、天井まで和漢の書物が積んであり、全て読了していた。
「佐藤先生の如(ごと)く老いたい」。渡部少年の願いは十分かなえられた。77歳のとき、2億円を超える借金をして家を新築し、友人たちを驚かせた。巨大な書庫には、なんと和洋漢の本15万冊が収蔵されている。80歳を超えてからも、ラテン語の名文句や英詩の暗記を欠かさず、「記憶力自体が強くなった」と豪語していた。
ただ渡部さんには、佐藤先生のような「平穏な知的生活」は、許されなかった。広範な読書と鋭い洞察力に裏付けられた評論活動は、しばしば左翼・リベラル陣営から激しい攻撃を受けてきた。渡部さんは、「自由主義を守る」との信念のもと、一切怯(ひる)むことはなかった。
正論メンバーでもあった渡部さんの訃報には驚いた。雑誌『正論』の4月号で論文を拝見したばかりだったからだ。「アングロサクソン文明圏の先進性」の観点から、トランプ米大統領を論じ、日本の進む道を示す内容だった。
昨年刊行したばかりの『実践・快老生活』には、こんな記述がある。「九十五歳くらいまで歳(とし)を重ねれば死ぬことさえ怖くなくなる」。86歳の渡部さんにとって、あと10年近くは「知的生活」が続くはずだった。
渡部昇一
「評論家の渡部昇一氏が死去 第1回正論大賞、「知的生活の方法」など著書多数」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/life/news/170418/lif1704180003-n1.html
本紙正論メンバーで第1回正論大賞を受賞した英語学者・評論家で上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)氏が17日午後1時55分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。86歳だった。葬儀・告別式は親族で行う。喪主は妻、迪子(みちこ)さん。後日、お別れの会を開く。ここ数日、体調を崩していた。
昭和5年、山形県鶴岡市生まれ。上智大大学院修士課程修了後、独ミュンスター大、英オックスフォード大に留学。帰国後、上智大講師、助教授をへて教授に。専門は英語学で、「英文法史」「英語学史」などの専門書を著した。
48年ごろから評論活動を本格的に展開し、博学と鋭い洞察でさまざまな分野に健筆をふるった。51年に「腐敗の時代」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同年に刊行された「知的生活の方法」は、読書を中心とした知的生活を築き上げるための具体的方法を論じ、100万部超のベストセラーとなった。
57年の高校日本史教科書の検定で、当時の文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたとする新聞・テレビ各社の報道を誤報だといちはやく指摘し、ロッキード事件裁判では田中角栄元首相を擁護するなど論壇で華々しく活躍。一連の言論活動で「正確な事実関係を発掘してわが国マスコミの持つ付和雷同性に挑戦し、報道機関を含む言論活動に一大変化をもたらす契機となった」として60年、第1回正論大賞を受賞。東京裁判の影響を色濃く受けた近現代史観の見直しを主張するなど、保守論壇の重鎮だった。平成27年、瑞宝中綬章。主な著書に「日本史から見た日本人」「ドイツ参謀本部」など。フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」など翻訳も多数手がけた。
「【渡部昇一氏死去】戦後の言論空間に風穴、勇気ある知の巨人」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/life/news/170418/lif1704180004-n1.html
産経新聞正論メンバーで論壇の重鎮として活躍した渡部昇一さんが17日、86歳で亡くなった。
人権教や平等教といった“宗教”に支配されていた戦後日本の言論空間に、あっけらかんと風穴を開けた真に勇気ある言論人だった。いまでこそ渡部さんの言論は多くの日本人に共感を与えているが、かつて左翼・リベラル陣営がメディアを支配していた時代、ここにはとても書けないような罵詈(ばり)雑言を浴びた。渡部さんは、反論の価値がないと判断すれば平然と受け流し、その価値あると判断すれば堂々と論陣を張った。
もっとも有名な“事件”は「神聖喜劇」で知られる作家、大西巨人さんとの論争だろう。週刊誌で、自分の遺伝子が原因で遺伝子疾患を持った子供が生まれる可能性のあることを知る者は、子供をつくるのをあきらめるべきではないか、という趣旨のコラムを書いた渡部さんは「ナチスの優生思想」の持ち主という侮辱的な罵声を浴びた。
批判者は《「既に」生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらない、というのが私の生命観である》と渡部さんが同じコラムの中で書いているにもかかわらず、その部分を完全に無視して世論をあおったのだ。
大ベストセラーとなった「知的生活の方法」も懐かしい。蒸し暑い日本の夏に知的活動をするうえで、エアコンがいかに威力があるかを語り、従来の精神論を軽々と超え、若者よ、知的生活のためにエアコンを買えとはっぱをかけた。
また、英国の中国学者で少年皇帝溥儀の家庭教師を務めていたレジナルド・F・ジョンストンが書いた「紫禁城の黄昏」を読み直し、岩波文庫版に日本の満州進出に理があると書かれた個所がないことを発見、祥伝社から完訳版を刊行したことも忘れられない。
繰り返す。勇気ある知の巨人だった。(桑原聡)
「渡部昇一『書痴の楽園』」(DHCテレビ) https://dhctv.jp/season/263/
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“SELF HELP”
ミル曰く、「一国の貴(とうと)まるところの位価(値)は、その人民の貴まるものの、合併したる位価なり」
ディズレーリ曰く、「世人つねに法度(ほうど)を信ずることは、分外(ぶんがい)に多く、人民を信ずることは、分外に少なきことなり」
1904年4月16日 サミュエル・スマイルズ 没。
「天はみずから助くるものを助く」(Heaven helps who help themselves.)。
彼の著した『自助論』“SELF HELP”は、明治初期に中村正直が『西国立志編』として翻訳し、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と共に広く若者に読まれ、明治日本勃興の原動力となった古典的名著である。
格調高い中村正直の訳。
「天はみずから助くるものを助く」(Heaven helps who help themselves.)といえることわざは、確然経験したる格言なり。わずか一句の中に、あまねく人事成敗の実験を包蔵せり。みずから助くということは、よく自主自立して、他人の力によらざることなり。みずから助くるの精神は、およそ人たるものの才智の由りて生ずるところの根源なり。
わかりやすい竹内均さんの訳。
「天は自ら助くる者を助く」
この格言は、幾多の試練を経て現代にまで語り継がれてきた。その短い章句には、人間の数限りない経験から導き出された一つの心理がはっきりと示されている。自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくのなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう。
久し振りに『自助論』。
竹内均さんの訳で。
第一章 自助の精神 ── 人生は自分の手でしか開けない!
1 成長への意欲と自助の精神
「天は自ら助くる者を助く」
この格言は、幾多の試練を経て現代にまで語り継がれてきた。その短い章句には、人間の数限りない経験から導き出された一つの心理がはっきりと示されている。自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくのなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう。外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。
保護や抑制も度が過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである。
どんなに厳格な法律を定めたところで、怠け者が働き者に変わったり、浪費家が倹約に励みはじめたり、酔っ払いが酒を断ったりするはずがない。自らの怠惰を反省し、節約の意味を知り、酒におぼれた生活を否定して初めて人間は変わっていく。
「外から支配」よりは「内からの支配」を政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。
立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。
われわれ一人一人が勤勉に働き、活力と正直な心を失わない限り、社会は進歩する。
われわれが「社会悪」と呼びならわしているものの大部分は、実は我々自身の堕落した生活から生じる。
法律を変え、制度を手直ししたからといって、高い愛国心や博愛精神が養えるわけでもない。むしろ、国民が自発的に自分自身を高めていけるよう援助し励ましていくほうが、はるかに効果は大きい。
すべては人間が自らをどう支配するかにかかっている。それに比べれば、その人が外部からどう支配されるかという点は、さほど重要な問題ではない。
暴君に統治された国民は確かに不幸である。だが、自分自身に対する無知やエゴイズムや悪徳のとりこになった人間のほうが、はるかに奴隷に近い。
人間が無知やエゴイズムや悪徳の束縛から逃れられるかどうかは、ひとえにその人間の人格にかかっている。そして国民一人一人の人格の向上こそが、社会の安全と国家の進歩の確たる保証となるのだ。
ジョン・スチュワート・ミルはその点をしっかりと見抜いている。彼はこう言った。
「人は専制支配下に置かれようとも、個性が生きつづける限り最悪の事態に陥ることはない。逆に個性を押しつぶしてしまうような政治は、それがいかなる名前で呼ばれようとも、まさしく専制支配に他ならない」
2 「努力はとぎれることなく引き継がれる」どんな国家であれ、幾世代にわたる人間の思想や活動の蓄積を経て現在の姿に発展してきた。社会の階層や生活の状態にかかわらず、たゆまず黙々と働いてきた人は多い。
現代の人間は、祖先の技術や勤勉によってもたらされた豊かな財産の後継者なのである。そして、われわれはこの財産を損なうことなく自らの責任において守り育て、次代の人々に手渡していかねばならない。
確かにどんな場合にも、他より抜きん出た力を発揮して人の上に立ち、世間の尊敬を一身に集める人物はいるものだ。だが、それほどの力を持たず名も知られていない多くの人たちでさえ、社会の進歩には重要な役割を果たしている。
たとえば、歴史上の大きな戦役で名を残すのは将軍だけだ。しかし実際には、無数の一兵卒の勇気あふれた英雄的な行動なしに勝利は勝ち取れなかったはずだ。人生もまた戦いに他ならない。
大切なのは一生懸命働いて節制に努め、人生の目的をまじめに追求していくことだ。それを周囲に身をもって示している人間は多い。彼らは、地位や力がどんなに取るに足らないものだとしても、現代はもとより将来の社会の繁栄に大きく寄与している。というのも彼らの生活や人生観は、意識するしないにかかわらず周りの人間の生活に浸透し、次代の理想的な人間像として広まっていくからだ。
最高の「教育」は日々の生活と仕事の中にある
エネルギッシュに活動する人間は、他人の生活や行動に強い影響を与えずにおかない。そこにこそ最も実践的な教育の姿がある。学校などは、それに比べれば教育のほんの初歩を教えてくれるにすぎない。
生活に即した教育は、むしろはるかに効果が高い。家庭や路上で、店や工場や農家で、そして人の集まるところならどこでも、毎日この生活教育は実践されている。
実際の仕事を学びながら人間性をみがき克己心を養うことができれば、人は正しい規律を身につけ、自らの義務や仕事をうまくこなしていけるようになる。
ベーコンはこう語っている。
「どんな学問や研究も、それ自体をどう使えばいいかについては教えてくれない。その一方、現実生活をよく観察すれば、学問によらずとも学問にまさる知恵を身につけることができる」人間は読書ではなく労働によって自己を完成させる。つまり、人間を向上させるのは文学ではなく生活であり、学問ではなく行動であり、そして伝記ではなくその人の人間性なのである。
そうはいっても、すぐれた人物の伝記には確かに学ぶところが多く、生きていく指針として、また心を奮い立たせる糧として役立つ。
立派な人間性を持った人物は、自助の精神や目的へ邁進する忍耐力、めざす仕事ややり抜こうとする気力、そして終生変わらぬ誠実さを兼ね備えている。
伝記は、このような貴重な人間の生涯をわかりやすい言葉で伝え、われわれが目標を成し遂げるには何が必要かをはっきり示してくれる。
また、主人公が恵まれてない環境から身をおこして名誉や名声を勝ち得るまでの歩みが生き生きと描かれ、読む者に自尊心や自信の大切さを痛感させる。
科学の分野にしろ文学や芸術の分野にしろ、偉人とたたえられる人物はどこか特定の身分や階層に属しているわけではない。大学を出た者もいれば、幼いうちから働いた者もいる。貧しい掘っ立て小屋の出もいれば金持ちの邸宅に生まれた者もいる。
きわめて貧しい境遇にもかかわらず最高の地位に上り詰め人物の例を見れば、どんなにきびしく克服しがたいような困難でさえ、人間が成功する上で障害とはならないとはっきりわかる。
多くの場合、このような困難は逆に人を助ける。つまり貧苦に耐えて働こうという意欲も起きるし、困難に直面しなければ眠ったままになっていたかもしれない可能性も呼びさまされるからだ。
このように、障害を乗り越えて勝利を勝ち得た人間の例は多い。それは「一志をもって万事を成し得べし」という格言をみごとに証明している。
「もし私が裕福だったら・・・・・・いまの私はない」
ジェレミー・テーラーは詩才に恵まれた神学者である。リチャード・アークライトは多軸(ジェニー)紡績機を発明して綿工業発展の基礎を築いた。また、テンダテンは英国法院の主席裁判官として名高く、ターナーは風景画の巨匠である。だが、彼らはみな一介の床屋から身をおこしてその地位に達したのだ。
シェークスピアが劇作家として名を成す前の職業についてはいまだ不明である。だが、卑しい身分の出であることだけは疑いない。
天文学の発展に大きく貢献した人々の中にも、貧苦から身をおこした例は多い。
コペルニクスはポーランドのパン屋の息子だった。ケプラーはドイツの居酒屋の息子で、自らも酒場のボーイをやっていた。またダランベールは、冬の夜にパリの聖ジャン・ル・ロン教会の石段のところで拾われたみなし子で、ガラス屋のおかみさんに育てられた。ニュートンはイギリスのリンカンシャー州グランサム付近の小さな農家の息子であり、ラプラスはセーヌ川河口の町オンフルール近くの貧農のせがれだった。
富は、貧困よりむしろ人間の成長にとって障害となるほうが多い。
『西国立志編 原名・自助論 斯邁爾斯(スマイルス)著, 中村正直訳』(近代デジタルライブラリー) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755558/1
- 作者: サミュエル・スマイルズ,中村正直
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- 作者: サミュエルスマイルズ,Samuel Smiles,竹内均
- 出版社/メーカー: 三笠書房
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両陛下のお言葉に涙した、マレーシア人男性
「『15年前、大変失礼いたしました』両陛下のお言葉に涙した、マレーシア人男性」(grape)
→ http://grapee.jp/319805
2017年に国交60周年を迎えた日本とマレーシア。
天皇陛下は今までに3度マレーシアを訪問され、マレーシアからも国王や首相が数度に渡り来日するなど、良好な関係を築いています。
そんなマレーシアに住む男性と、天皇皇后両陛下の心温まるエピソードをご紹介します。
天皇陛下に、手紙をしたためた少年
1991年9月30日、マレーシアを訪問された陛下と美智子さま。
クアラルンプールに到着されたあとは国会議事堂前での歓迎式典や晩餐会に参加され、翌日に予定されていたマレーシアの都市クアラカンサーを訪れることを楽しみにされていました。
しかし翌日、隣国のインドネシアで山火事が起き、煙の影響で飛行機が飛べなくなってしまったのです。結果、クアラカンサーご訪問は中止となってしまいました。
その報告を聞き、人一倍残念な思いをした人物がいました。それはクアラカンサーに住む15歳の少年、ムハマド・ハフィズ・オスマンさん。
日本びいきの祖父と父の影響を受け、日本文化を愛する彼は、両陛下の訪問を本当に楽しみにしていました。
彼が在籍していた学校『マレーカレッジ』にて、両陛下歓迎の挨拶をすることになっていたハフィズさんは、あまりのくやしさに涙が枯れるまで泣いたそうです。
しかしハフィズさんは諦めませんでした。翌日、祖父から教えられていた『日本人の義理堅さ』を信じ、両陛下がまた来てくれることを願って、手紙をしたためたのです。
日本とマレーシアの架け橋になりたい
やがて月日が流れ、日本への思いがますます強くなっていったというハフィズさん。
日本語を猛勉強し、筑波大学に入学。そして日本で就職することになりました。
日本とマレーシアの架け橋になりたい。
そんなハフィズさんの思いが天に届いたのか、ある日、日本とマレーシアをつなぐ東方政策事務所の日本担当者として活躍することになったのです。
東方政策とは、日本や韓国の成功を参考に、国民の労働倫理、学習・勤労意欲、道徳、経営能力などを学んで自国に活かそうという、マレーシアの政策です。
日本の担当者として忙しい日々を送っていたハフィズさんは、母校であるマレーカレッジから念願の電話を受け取ることになります。
ハフィズさんはこれを快諾しました。
15年越しに叶った願い
2006年6月10日、クアラカンサーのマレーカレッジを訪問された陛下と美智子さま。
ハフィズさんは両陛下を迎えた門の前で、そのお姿を初めて見たとき神に感謝したといいます。
校内の案内後、ハフィズさんの後輩たちが披露するマレーの民族舞踊を観て、資料館へ。
そして資料館を案内する際、ハフィズさんが両陛下に自己紹介をしたところ、思わず涙してしまうことになるのです。
こちらは、ハフィズさんが書いた実際の感想です。
私が自己紹介をさせていただくと、天皇陛下が少し離れた皇后陛下を呼んで、「この方は15年前ここにいらっしゃいました」と、紹介してくださったのである。
まったく予想もしなかった感動的な出来事だった。皇后陛下は私のところまで歩み寄り「15年前のこと、大変失礼いたしました」とおっしゃったのだ。私は思わず涙を流してしまった。
国際交流基金 ーより引用
陛下はハフィズさんが15年前に書いた手紙を覚えていらっしゃり、なんとこの時のマレーシア訪問は、それを考慮されてのことだったのです。
ハフィズさんは両陛下のお言葉を受けて「15年間待ち、やっとお目にかかることができ、これ以上の喜びはありません。私たちのことを15年間ずっと覚えていてくださって、ありがとうございました」と頭を下げたそうです。
陛下はマレーシアを訪れる前の記者会見で、このようなことをおっしゃっています。
当時の国王を始め,ペラ州の人々が私どもの訪問を待っている状況の下で訪問を中止したことは常に私の念頭を離れないところでありましたが,今回その訪問を果たし,今は国王の位を退いていらっしゃるアズラン・シャー殿下,妃殿下に再びペラ州でお目にかかれることをうれしく思っています。
宮内庁 ーより引用
「両陛下の優しい瞳が印象的だった」というハフィズさん。それからも、美しい『日本の心』はずっと心の中にあるといいます。
15年前のことをずっとお忘れにならなかった陛下。「大変失礼いたしました」と頭を下げられた美智子さま。両陛下と日本のことを思い続けたハフィズさん。
それぞれの思いに心が温まる、素敵なエピソードでした。