NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

サン=テグジュペリの幸福論

 たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。

── サン=テグジュペリ『人間の土地』

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

坂口安吾と福田恆存

坂口さんのこと。

 坂口さんは人間のすなおなやさしさといったものを求めていた人であるし、またそういうものを皆がじかに出しあって、傷つかずに生きていくことを夢みていた人でもあろう。ぼくが坂口さんのことをローマン派だとおもうゆえんである。
 坂口さんが伊東にいた頃、二度ばかり遊びにいったことがあるが、そういう時にもすなおなやさしさにふれたいという彼の切ない気持ちを感じた。

─ 中略 ─

 坂口さんが家を探していた時、ちょっと手伝ってあげたそのお礼に、アメリカ製のカンキリを貰った。今でも愛用しているが、これがとうとうかたみになってしまった。オモチヤみたいな機械類を好んだ坂口さんをぼくは好きだった。

── 福田恆存「坂口さんのこと」『知性』昭和三○年四月号

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

一日一言「幸と不幸の標準」

二月十八日 幸と不幸の標準


 何が福で、何が禍(わざわい)か。昨日までは川の淵だったものが今日は浅瀬となるような変化の激しい世の中で、禍福の区別を定めても何の意味もない。何事も、自分に返ってくることは、みな天のなせるものとして受けとめれば、他人には災難と見えても、自分にとっては福であることもある。幸と不幸の標準は、ただ自分自身の心の持ち方にある。


  世の中はつねる飛鳥川
      きのふの淵ぞ今日は瀬になる   〈古今集

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


福田さんの幸福論。

 失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。その一事をいいたいために、私はこの本を書いたのです。べつの言葉でいえば、自分の幸と不幸とは、自分以外の誰の手柄でも責任でもない。誰もが、いままで誰一人として通ったことのない未知の世界に旅だっているのです。なるほど忠言はできましょう。が、その忠言がどの程度に役だつかどうか、それはめいめいが判断しなければなりません。第一、つねに忠言を期待することは不可能です。
 究極において、人は孤独です。愛を口にし、ヒューマニズムを唱えても、誰かが自分に最後までつきあってくれるなどと思ってはなりません。じつは、そういう孤独を見きわめた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけえたのだといえましょう。つめたいようですが、みなさんがその孤独の道に第一歩をふみだすことに、この本がすこしでも役だてばさいわいであります。

── 福田恆存(『私の幸福論』)

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

安吾忌

空にある星を一つ欲しいと思ひませんか? 思はない? そんなら、君と話をしない。

── 坂口安吾『ピエロ伝道者』


あちらこちら命がけ


安吾忌。
昭和三十年(1955年)年2月17日 坂口安吾 没。


安吾のことば。
厳選(しきれなかった)五十、とちょっと。
ぼくの生きる指針!

  • もしそれ電車の中で老幼婦女子に席をゆずる如きが道義の復興であるというなら、電車の座席はゆずり得ても、人生の座席をゆずり得ぬ自分を省みること。(『エゴイズム小論』)
  • 道義退廃などと嘆くよりも先ず汝らの心に就いて省みよ。人のオセッカイは後にして、自分のことを考えることだ。(『エゴイズム小論』)
  • 人間の尊さは、自分を苦しめるところにあるのさ。満足はだれでも好むよ。けだものでもね。(『風と二十の私と』)
  • 人生を面白がろうとしないのだ。面白くないことを百も承知で平気で生きている奴の自信に圧倒されたのである。(『神サマを生んだ人々』)
  • 私は善人は嫌いだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあいで世を渡り、真実自我を見つめるという苦悩も孤独もないからである。(『蟹の泡』)
  • 私は悪人だから、悪事が厭だ。悪い自分が厭で厭でたまらないのだ。ナマの私が厭で不潔で汚くてけがらはしくて泣きたいのだ。私はできるなら自分をズタ/\に引き裂いてやりたい。そしてもし縫ひ直せるものならすこしでもましなやうに縫ひ直したい。(『蟹の泡』)
  • 言いたい者には、言わしめよ。人に対して怒ってはならない。ただ、汝の信ずるとろころを正しく行えば足りるものである。(『肝臓先生』)
  • 人情や愛情は小出しにすべきものじゃない。全我的なもので、そのモノと共に全我を賭けるものでなければならぬ。(『詐欺の性格』)
  • 盲目的な信念というものは、それが如何ほど激しく生と死を一貫し貫いても、さまで立派だとは言えないし、却って、そのヒステリィ的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである。(『青春論』)
  • 持って生まれた力量というものは、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、僕には許された道というのは、とにかく前進するだけだ。(『青春論』)
  • モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ 。(『続堕落論』)
  • 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然と死んでゆく。(『続堕落論』)
  • もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • いのちを人にささげる者を詩人という。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し救わなければならぬ。(『堕落論』)
  • 人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。(『堕落論』)
  • ともかく、希求の実現に努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくづれるけれども、諦めや慟哭は、くづれ行く夢自体の事実の上に在り得るので、思惟として独立に存するものではない。(『デカダン文学論』)
  • 人間は先づ何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考へるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考へて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。(『デカダン文学論』)
  • 私はたゞ人間、そして人間性といふものゝ必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、といふだけである。(『デカダン文学論』)
  • 日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとつて、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとつては人間が全部のものだ。(『デカダン文学論』)
  • めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。(『デカダン文学論』)
  • 私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。(『デカダン文学論』)
  • 偉くなるといふことは、人間になるといふことだ。人形や豚ではないといふことです。(『デカダン文学論』)
  • 俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。(『日本文化私観』)
  • 忘れな草の花を御存知?あれは心を持たない。しかし或日、恋に悩む一人の麗人を慰めたことを御存知?(『ピエロ伝道者』)
  • 親がなくとも、子は育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。(『不良少年とキリスト』)
  • 負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。(『不良少年とキリスト』)
  • 人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私はユーレイはキライだよ。死んでも、生きているなんて、そんなユーレイはキライだよ。(『不良少年とキリスト』)
  • 死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。(『不良少年とキリスト』)
  • 要するに今あるよりも「よりよいもの」を探すことができるだけだ。絶対だの永遠の幸福などというものがある筈はない。(『欲望について』)
  • 無為の平穏幸福に比べれば、欲望をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだろう。(『欲望について』)
  • ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。(『恋愛論』)
  • 私はいったいに同情はすきではない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。(『恋愛論』)
  • 私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実は苦難の道なのである。(『恋愛論』)
  • 所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。(『恋愛論』)
  • 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを恐れたもうな。(『恋愛論』)
  • 孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。(『恋愛論』)
  • 私は悪人です、と言うのは私は善人ですというよりもずるい。(『私は海を抱きしめていたい』)
  • 人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらへて行くのだ。(『教祖の文学』)
  • 人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。(『教祖の文学』)
  • 自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。(『教祖の文学』)
  • 人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。(『教祖の文学』)
  • 大人はずるいものだ。表と裏が別で、口では正義を説きながら裏では利慾をはかり、自らの為し得ざえることを人には要求し、カラクリだの陰謀術数を人生の経緯とし、これを称して人間ができてゐるとか、大人物だとか、申してゐます。青年の純潔さや一本気な情熱などは青二才の馬鹿さ加減と考へてゐるのが常識で、又、悲しむべき現実でもあります。(『青年に愬ふ』)
  • 他をたよつたり、味方をふやすことを考へる必要もない。他の嘲笑を恐れる必要もないし、自分だけ正しく行動してゐるのに他の人々が悪いことをいてゐるといつて怒ってしまつてはもう駄目だ。(『青年に愬ふ』)
  • 青年は先づ「ひとり」であることが大切だ。さうして、自分とは何者であるか、何を欲し、何を愛し、何を憎み、何を悲しんでゐるか、それを自覚し、そして自分自身を偽らぬことです。(『青年に愬ふ』)
  • 他人が正しくないと云って憤るよりも、自分一人だけが先づ真理を行ふことの満足のうちに生存の意義を見出すべきではないですか。(『青年に愬ふ』)
  • 私は結社や徒党はきらひで、さういふものゝ中でしか自分を感じ得ぬ人々は特にきらひなのです。(『青年に愬ふ』)
  • 青年は純潔だなどゝ申しても、人間は悲しいもので、年をとると、だめになります。情熱はだんだんあせ、正義よりも私利に傾き、せちがらくなり、ずるくなり、例の大人になります。(『青年に愬ふ』)
  • 何物を破壊する必要もない。正しいもの、美しい物を造ることによって自ら破壊は行はれるでせう。(『青年に愬ふ』)
  • 重ねて言ふ、大人はずるく、青年は純潔です。君自身の純潔を愛したまへ。(『青年に愬ふ』)

 → http://my.reset.jp/~nakamoto/book_ango.html


坂口安吾 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE
坂口安吾デジタルミュージアム』 http://www.ango-museum.jp/
新潟市 - 安吾賞 -Ango Awards-』 http://www.city.niigata.lg.jp/info/bunka/ango/

すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。

── 坂口安吾『ピエロ伝道者』


堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

安吾の幸福論

明日は安吾忌。


「人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。」

 しかし、人生は由来、あんまり円満多幸なものではない。愛する人は愛してくれず、欲しいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口をひろげて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。
 人の魂は、何物によっても満たし得ないものである。特に知識は人を悪魔につなぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ない。限られた一生に、永遠などとはもとより嘘にきまっていて、永遠の恋などと詩人めかしていうのも、単にある主観的イメージュを弄ぶ言葉の綾だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。
 人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。
 プラトニック・ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互に他を裏切ることが宿命で、われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り、肉体を軽蔑することに馴れているが、精神はまた、肉体に常に裏切られつつあることを忘るべきではない。どちらも、いい加減なものである。
 人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。
 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

── 坂口安吾『恋愛論』

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

アドラーの幸福論

「どうすれば人は幸せになれるのか?アドラー心理学が示す5つの教訓」(@DIME
 → http://dime.jp/genre/346613/

『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』は、職場やビジネス環境を改善させることだけを最終目的とした本ではない。どうすれば人は幸せになれるのかー。その答えを導き出すためには、自ら考え、自ら「生き方」を選択していく必要がある。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え 幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII


【幸せの法則1】今の自分を肯定し、自分の過去を否定しない

「決断を先延ばす人は、いつまでも悩み続けることになります。進路に悩んだ時は『自分が役に立っているかどうか』を判断材料にしましょう」(岸見さん)


◎人は失敗を恐れて行動を制限してしまう

 アドラーは、すべての悩みは対人関係にあるという。ならば、悩みをなくす――幸せな生活を送るということは、他人に左右されてしまう可能性があるのではないか? しかし「そうではない」と岸見さんは言う。

「私は、奈良女子大学ギリシャ語を教えていましたが、その時のエピソードです。学生は皆、優秀でしたが、中に、授業中に指しても全く答えない学生がいました。なぜ何も答えないのか問うと、彼女はこう言ったのです。『もし答えて間違えたら、自分ができない学生だと思われる』。つまり失敗を恐れて、その場で固まっていたのです」

 岸見さんは、このエピソードから普遍的な命題を導き出す。人は、人からどう思われるかを恐れるあまり、行動の機会――成長するきっかけを逃しているのではないか。

「誰の中にも失敗を恐れる気持ちがあります。私はこの学生に、『失敗は当然』『間違ってくれたほうが、自分の教え方の問題点が明らかになる』と説明しました。すると彼女は、積極的に発言するようになり、みるみる上達。彼女は変わったのです」

 岸見さんは、「この学生がありのままの自分を受け入れたことで、自分を変えることができた」のだと言う。

「端的に言うと、?今の自分?を好きになることです。自分を肯定していない人は、自分の過去を否定して『過去にこんなことがあった』と言い訳を口にする。しかし実は、過去でさえ、?今の自分?次第です。"今"を肯定できない人が、過去に原因を求めてしまうのです」

"今の自分"を信じる――。

「私たちは、皆、共同体の一員なのです。だからといって他人に振り回されるのではなく、まず、自分から一歩を踏み出す。それが?変わる?ということです。会社を辞めたくなったとしても、まずはこの意識変革で乗り切れないか、トライしてみてください」

「人は誰しも、『"わたし"という物語の編纂者』です。今の自分に満足するかどうかで、過去の意味合いも変わってきます」と岸見さん。


【幸せの法則2】「仕事」「交友」「愛」の3つを、バランス良く満たしていく

アドラーいわく、人が直面せざるを得ない人生の課題(タスク)は、「仕事」「交友」「愛」の3つ。「ひとつに偏らないことがポイントです」(岸見さん)


◎どれだけ貢献したかで幸福度が決まる

 すべての悩みは対人関係の悩みであるとするならば、人間関係をすべて断ち切ってしまえば、悩みはなくなるのだろうか。

「それは違います。なぜなら、生きる喜びも、対人関係から生まれるものだからです。想像してみてください。地球にたったひとりで生きているとします。その人生に、喜びはあるでしょうか? 幸せとはほど遠いですよね」

 では、幸せのかたちとは?

アドラーは、人生には3つのタスク――直面せざるを得ない課題があると言っています。『仕事』『交友』『愛』の3つです。そしてこの3つのバランスと調和も大切です」

 これまで一貫して、仕事の関係を見てきたが、「交友」と「愛」とは何か?

「『交友の関係』で大事なことは、自分から先に信頼することです。それも無条件に信頼します」

 無条件に信頼するとは、具体的にどうすればいいのか。

「最も簡単な振る舞いは、打算や下心抜きで、『ありがとう』と声をかけることです。相手の貢献に感謝するのです」

 共同体の一員である私たちにとって、「誰かのためになっている」という意識は、大きなモチベーションだ。「ありがとう」と声をかけ合うことは、貢献を認め合うこと。信頼の交換なのだ。

 では「愛」は?

「これは最も難しいタスクでしょう。大前提としてまず、アドラーは『幸福とは貢献感である』と規定しています。つまり、誰かの役に立っていると意識した時に、人は自分の価値を実感するのです。では『愛』とは何でしょう? 私は、?私という主語を捨てること?だと考えます」

"私"を捨てる?

「人は、自分中心に物事をとらえています。損得勘定もそうでしょう。しかし自分に拘泥していては、幸せからは遠ざかります。?私?ではなく、"私たち"の幸せのために行動する。それが愛するということなのです」

 幸福な生き方とは、すべて自分で選び取ることができるものなのである。

「ボクは打たれ強い」「健康だ」……と自分で自分の価値を認め、アピールすることが大事。相手が自分に価値があると実感するためには、「ありがとう」の声かけを。


アドラー心理学的5つの教訓

一、 失敗を恐れず、積極的に行動しよう
一、 他人に振り回されず、自分から踏み出そう
一、 打算抜きで「ありがとう」と声をかけよう
一、「誰かの役に立っている」と意識しよう
一、"私"ではなく"私たち"の幸せのために行動

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

山本周五郎

 人間は自分のちからでうちかち難い問題にぶっつかると、つい神に訴えたくなるらしい、――これがあなたの御意志ですかとね、それは自分の無力さや弱さや絶望を、神に転嫁しようとする、人間のこすっからい考えかただ

── 山本周五郎(『おごそかな渇き』)

昭和42年(1967)2月14日 山本周五郎 没。


周五郎のことば、十選。

  • 「人間が欲に負けるというのはつくづく悲しいもんだと思いますよ」(『さぶ』)
  • 「世の中には生まれつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生まれつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が眼に見えない力をかしているんだよ」(『さぶ』)
  • 「人間はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない、生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ」(『樅ノ木は残った』)
  • 「――意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護(もり)立てているのは、こういう堪忍や辛抱、――人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」(『樅ノ木は残った』)
  • 「人間としをとればいろんなことがわかってくる、わかるにしたがって世の中がどんなにいやらしいか、人間がどんなにみじめなものか、ってことがはっきりするばかりだ」(『へちまの木』
  • 「にんげん生きてゆくためにゃあ、どんな恥ずかしいことも忍ばなくちゃあならねえときがある、気にしなさんな、そのうちに慣れるさ」(『へちまの木』)
  • 「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、――だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望がもてるように思えるのだ」(『赤ひげ診療譚』)
  • 「あなたの持っている才能も、このままではだめだ、もっと迷い、つまづき、幾十たびとなく転び、傷ついて血をながし、泥まみれになってからでなくては、本物にはならない」(『虚空遍歴』)
  • 「世間にゃあ表と裏がある、どんなきれい事にみえる物だって、裏を返せばいやらしい仕掛けのないものは稀だ、それが世間ていうもんだし、その世間で生きてゆく以上、眼をつぶるものには眼をつぶるくらいの、おとなの肝(はら)がなくちゃならねえ」(『虚空遍歴』)


  • 「苦しいときほど人間がもっとも人間らしくなるときはない。」(『雨のみちのく・独居のたのしみ』)

山本周五郎のことば (新潮新書)

山本周五郎のことば (新潮新書)

人は負けながら勝つのがいい

人は負けながら勝つのがいい

雨あがる 特別版 [DVD]

雨あがる 特別版 [DVD]